『意根を断つ今一度坐禅について』後編

静岡県少林寺住職 井上貫道

 人の行ないというのは、1回1回完成度100%の真実なのでありますが、自分の思いからいえば、 「完璧ではなかったな」と思うことがあるかもしれません。歩いていて、転んだりなんかすると、 「あっ、失敗した」と思う。でもそれは、そう「思う」ことであって、目の前の事実は違う。歩い ていて転んだら、転んだようにあるだけ。それで何も悪くないのです。それなのに、転ばないこと が人の求めているすがただと思っている。

 真実というのは、自分の思慮、分別、考えかたをやめてみたときの自分のすがたです。まだ 認識というものが育たない子どもさんたちがそうですね。赤ちゃんには、ものにたいするこだわり はまったくありませんから、だから天真爛漫と表現されるようなすがたがある。

 ところが、赤ちゃんを抱き上げたとたんに泣かれたりなんかすると、私は嫌われているんだな と思う。それなのに、「あの人の時は泣かないな」となると、「あの赤ちゃんは私が嫌いだ。あの人 のことは好きだ」とこう思う。「今度もまた泣かれるだろうな。いやだな」と。ただ、こちらの姿が そのままその時赤ちゃんに伝わるから、泣いたり笑ったりするんです。赤ちゃんのほうには、こだわ りがないんですよ。だからいくら大きいダイヤモンドをあげても、かたいし甘くもないから見向きも しません。逆に汚いものでも口に入れて、うわーっとみんなが慌ててとるなんてことが起こる。

 だから仲良くなると、大事にしているものでもみんなくれますね。先日、3歳ぐらいの子ですが、 私の名前を覚えて「貫道さん、貫道さん」と言いながら、お菓子を「これも、これもあげる」と手渡し てくれました。私が坐禅堂へとすがたを消しましたら、向こうで大きな声で泣いていました。ところが 泣き疲れてくると、そのうち知らん顔して、それで終わり。でも、おとなはこういうことに弱いですね。 すぐに「ああすればよかったかな」なんて思う。

 なんにでもそうですが、すぐに余分な思いが起きてきます。そして、「ああすればよかった」、 「こうすればよかった」と思いをいっぱい重ねて、しまいにはどれがもとの色だったかわからなくな ってしまう。「思い」というものが人をたぶらかして、真実からかけ離れさせてしまうのです。

 思いから離れ、目の前のことをやる

 これから道元禅師が残されたお言葉を参考に、お話を進めてまいります。まず、「修行の用心 を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教ふ」とあります。修行はどうしたらいいか。今や っていることの外に、なにかもっと素晴らしい世界があるのではない。今にそいきれない人が、むな しさを感じるのです。今から目が離れてどこかに探し求めるから、いよいよどうしていいかわからな くなる。ただ純粋に、今のことをやりさえすればすむということです。

 ところが「なんで私が? どうして?」と、こういう気持が次から次に起きてくる。その思い にしばられて、結局やれなくなってしまう。やれなくなった自分がいやになって、卑下をしたり、落 ち込んだり??、結局もっと苦しむことになる。そこへ人から「なぜやらないんだ」なんて言われると、 もう、もっといやになる。たまらなくなる。みなさんは身に覚えがないですか。

 おとなりの中国に昔、趙州さまという立派な和尚さんがおられました。大勢の修行者が訪ねたそ うですが、ある日、はじめて趙州さまのもとに来た人が、「どう修行をしたらいいですか」と尋ねられ たそうです。すると「朝ご飯は食べたかね」と逆に問われた。

 みなさんどう思われますか。どんな修行をすればよいのか尋ねているのに、この返答。この人 ちょっとピントがずれているんじゃないかと思いませんか。

 ところが修行にやって来た人、「朝ご飯は食べたかね」と自分の耳に聞こえるから、「はい、 確かに食べました」と答えた??それだけなのです。すごいでしょう。みなさんはこういうふうにで きますか。みなさんの場合は、すぐに思考回路が働いて、「なんで修行のやり方を教えてくれない んだ。不親切じゃないか」くらいのことを思うのではないですか。

 ところがこの2人、「朝ご飯は食べたか」、「食べました」、「それなら器を洗いなさい」と、 それだけ。修行の場でなくともわれわれの日常に転がっている話です。これが、目の前にあったら 次から次へとやればよいということの一例になるかと思います。

 他にも例えましょうか。本を速く読もうとして、先のほうへと字を追って読む。でもそうしてい るうちに、なにがなんだかわからなくなってしまう。結局は速く読みたいからといっても、書いて ある内容が正しく読みとれなければ、本を速く読んだことにはならない。われわれの生活も、いろ いろあって忙しいと言いもし思いもしますが、実際には1つずつやるだけなのです。うっかりすると 忙しさにだまされて、こころまでいらいらして、やるべきことが手につかなくなるのです。

痛いことでも、全部が大事なこと

 「修を離れぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行の緩くすべからざると教ふ」。 なにかをした時、そのとおりの事実というものがあります。これは先ほどから申しておりますように、 その事実を人は思考で汚しています。人間は思考によって追求すると、真実がわからなくなる。

 「直指の本性なるがゆえなるべし」、パン、この音は、この音のなかにしかない。そういうの を直指といいます。ほかに指さしてあたる場所はないですね。だけども人間は愚かだから、どこかほ かに真実があると思う。今やっていることが本当だとはなかなか思えません。それはそうなんですね。 自分の描いた思いのほうが自分に近いわけですから、自分の思いに当てはまらないことは、真実だと 思いたくないわけです。

 日常的なことを例にしてお話ししますと、誰でもお腹はいつも正常に働いて、痛くないほうが いいと思っています。どなたでもそう願っていると思うのですが、では痛いのを自分の意志でとめて みる。でもね、ほんとうはそんなことはよくないですね。人間のからだは、痛みが出てくるときには 必要があって痛むようにできています。それなのに自分の意志で痛くないようになったらたいへんで す。お腹の中が破れていても気がつきません。自分の思いでは、痛くないほうがいいかもしれません が、この今の傷みを除いては今が成り立たないようにうまくできているんですね。なんでも全部があ りがたいこと、大事なことです。自分の思考で色をつけ変えるより先にある全部が真実、大事なこと なのです。それから手当ということが出てくるのです。

 毎日、毎回が驚きの生き方

 「初心の弁道、すなわちいち分の本性を無為の地に得るなり」。みなさんのなかに坐禅がはじめ てという人はどのくらいおられますか。はい、この方たちのこと、初心だと思いますか。実は、初心と いうのは、ここにいる全員。私も含めて初心なのです。なぜかといいますと、きょうの坐禅は誰もやっ たことのない坐禅だからです。人生で一度もやったことのない坐禅を、きょうみなさんはやった。こう いうことを初心といいます。ところが何回も経験している人は、自分は初心ではないと思っています。 でもそんなことはありません。一度もやったことがないんですから。

 私たちの人生はみなそうです。これからやることは、一度も経験したことのないものばかり。 毎日がこれからはじめてやること。なんとすばらしいことでしょう。なんと輝かしいことでしょう か。一度も見たことのない世界に出会うのです。毎回、時々刻々と驚きばかりです。ところが、ち ょっと頭のかたい人は、「毎日、毎日同じだ」なんて思っている。これは、思考回路で見ているか らですね。だから、どんどん老けていきます。こころがどんどん老けて、なんの喜びも感動もなく なってしまいます。

 定年退職された方が趣味を何ももってなくて、寂しくぼーっと過ごしている。ところが、趣味 も何もなくても、人は毎日毎日、生まれてから見たこともないものばかりに、朝から晩までふれるの です。だから、「あっ」「あっ」と驚きばかり。それくらい新鮮な生きかたができるようになってい るのです。

 そうしますと、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と遊んだりしましても、おじいちゃん、おば あちゃんが、毎日毎回を新鮮に感じていればお孫さんも楽しい。さきほど申しましたけど、自分の気 持ちそのままが小さいお子さんには反映されるのです。それが、何百回も経験したことだ、毎日同じ だと思う人は、なにを見てもふれても感動がない。そういうおじいちゃんやおばあちゃんが子どもと 遊んでも、子どもは喜びませんね。

 「初心の弁道、すなわちいち分の本性を無為の地に得るなり」という、「いち分」というのは 今ということです。「今本性を無為の地に得る」となります。

 先ほどの控室に「無為最も尊し」と書いてありました。どなたかが「何もしないということが 尊いのですか」と聞かれましたが、これはね、パンという音を聞くときに、私たちは何かをしました かということ。特別に何かをしたわけじゃありませんよね。それなのに、ちゃんと聞こえるようにな っている。こういうことを「無為」といいます。人間の思考を離れた、本当の活動をしていることが 「無為」というのです。「無為」というところに気が付いて、目を向けていくと、本当の修行ができ るようになってくる。これが「意根を断つ」ということになろうかと思います。本日はありがとうご ざいました。

  合掌