成願寺 今昔 あれこれ (三) 住職 小林貢人
さてこの過去帳。檀家の家中で亡くなった人の記録です。瀬田ヶ谷利八娘、田端(現成田西)新平■(本人)、四ッ谷三右エ門子。屋号もつけた、中野つけにや半平衛女房、成子合羽屋八右ェ門伜とあり、苗字のない時代ですから地名、屋号、戸主名と家中の関係で誌し本人の名前は殆ど判らない。つけにやとは附木を作っていた店。5センチ四方の経木に硫黄をかぶせた火打石の相棒、擦ったことはないが、見たことある人ここに何人か居られるでしょう。
過去帳は毎朝のお勤めで傷むんですね。そこで時々書き直す。27日の頭に当寺開基正蓮大居士(中野長者鈴木九郎)示寂、人王103代永享十戊午、今に至る336年とある。ですからこの過去帳230年前安永3年の再清書なんです。
昔は戒名に院号なんてつけない。平成の今「院号、どうしても御希望なら差し上げますよ」となりますけれど、昔はつけない。この寺をまるまる寄進した九郎もただ「正蓮大居士」にすぎない。
「院号は無いのが宜しいんじゃないですか。信士信女居士禅尼が一番戒名らしい」と私がつねづね申し上げてる元はこれなんです。
江戸時代以前は戒名をつけ野辺送りし、あとは家内の仏壇で供養する。それが過去帳での記録が詳しくなると並行して、石のお墓が常識となる。
成願寺墓地でいちばん古いお墓は宝篋印塔、慶長四年の字が読みとれる。豊臣秀吉が逝った翌年です。50年あとの慶安承応となると舟型彫像のお墓が多い。何故その頃から石のお墓が現れたか。
文化財という言葉を広めた郷土史の鼻祖・稲村坦元先生のお話。
『江戸城をつくるのに、徳川が諸大名に石を献上させた。膨大な量のうち、特に根府川の小松石を集めた。ところが、お城はでき上がり、さぁ石屋さんは困った。材料が余った。そこで、これをお墓に活用しようといって、その風習を広報普及した。
「おとうさん向かいの家でお墓を造るそうですよ」 「そうか親父の年回も近いしな、うちも建てるか」とお墓をつくらせて、大名たちが持ち帰り損をしないようにし、石屋さんの失業救済にもしたという。
機械のない昔、たいへんな手間と暇がかかった筈。慶長4年と書いてあっても、亡くなった日が慶長四年で、お墓をつくったのはずうっと後に違いない。少なくとも慶長とか明暦の頃は、一般庶民でお墓をつくる風習は絶対になかった』とのことです。
ついでながら区役所正面口、中野区の淵源を記した銘文はこの稲村先生の作です。
田舎で育った人はご存じでしょうけれども、自分の屋敷、田畑の一部または集落の奥に身内を埋葬し、お墓をつくっている。
人みまかるとき自宅で家人に囲まれ、引き続き家人の目届くところに眠る。逝った人の肉体はいち早く埋葬火葬されますが、49日など(風習による)忌が開けると、現世の家人にとり先祖の心は身近な存在になる。先祖の心を具現して墓陵を築き位牌を祀ってお詣りする。この感覚が私たちにずーっと流れていた。尊いことです。
以前、列を組んで行なった葬送は逝く人へ追悼し感謝する街・地域の一大行事であったのに、だんだん地味になり、霊柩車に出会ったら親指を隠して横を向けなんて教えるようになった。逝く人から文化を受け継いでいることを考えもしない。
完全なるホスピスと称しながら隣地に葬祭場を造らせない大病院もあります。人を送る厳粛な行事に敵意もて妨害するホスピス、許せませんね。
こうなった次第を私は考えます。
都会地を中心に家族の収入先が地元を離れて通勤先へ、家人の交流圏も一定しなくなり、共同体意識の必要が薄れてきた。その間、個人生活で家族より軍隊役所会社を優先することがながく美徳とされ、特に日本復興のここ半世紀、会社人間を高評価しがちだ。日本の国が西欧帝国主義に対抗して生き残り、また昭和20年の壊滅的敗戦から立ち直れたのは、働く日本人と矜恃ある指導者たちの存在に違いない。悲しくも同時に、日本の行政者・資本家とそのグループは従事者の肉体・精神を余力無きまでこき使う。そこから少子化、子育て困難、家庭内会話・家族文化伝授の欠乏、ひいては社会不適応人間発生などを生み、先祖伝承の軽視を招いてきた。
もっとも、ある会でこの説を披露したところ同席の経営者たちに、
「とんでもない。我々実業人は文化、経済、民生の安定発展を誰よりも心がけている。また、バランスとれた会社経営の大変さ、お寺とは別世界!」。
と一蹴されました。でも私の不安は消えません。
どうも話が展転します。申し訳ない。
先ほどお話しした荻窪の中田、調布の吉田という檀家さんは、自分の地所の一角に一族の墓地を設けている。だから私たちも出張してお経を読む。
この近所の川本秋元、初台の番場、羽根木の稲山などの古い家も、元はそうだったに違いない。それが寺社奉行の方策が浸透し、各家のお墓をお寺へ集めたのでしょう。
キリシタンがまだまだ全国に潜在し、由比正雪のような不満分子もいたこの頃、寺社をとおしての人民統治は徳川幕府の一大緊要事。先祖の戒名をしっかり記録し石のお墓を奨励したのは、住民固定の狙いがあったからと私は考えます。
また関ヶ原の戦いより50年、玉川上水の工事着手にみられるよう、社会・経済が安定してきたこともありましょう。
お寺の組織のほうですが、いまは幸いなことに、われわれは梵妻(奥さん)を迎えたり、可愛いい子供をもうけたりすることができるけれども、江戸時代は坊さんは文句無しに妻帯禁止。浄土真宗以外は家族がいない。そこで成願寺は、新潟の栃尾地方からしばしば弟子を連れてきた。
ご存じのようにお米はじめ農水産物ゆたかで、海陸の往来盛んだった越後の国は、永い間日本で一番人口の多い土地、また子供兄弟のうち1人は出家させようという信心深い習慣もあったようです。したがって男女の出家も多く寺院も多い。僧侶の親戚関係を法類といいますが、成願寺代々の法類は新潟に元があるようです。地縁での後継者もあり、天保8年(1812)には深川霊運院の僧侶が入籍してる。
後任候補に目安を付け、本寺秦野の香雲寺に申請する。「私は住職許可頂いたばかりですが、体調不備です。この後継ぎに譲りたいと存じます。如何なものでしょうか」との文書が残ってます。
埼玉の越生龍穏寺、江戸幕府寺院統制の一代拠点。そこへも伺書をたてている。その龍穏寺は何分にも遠い。そこで、龍穏寺の出張所が芝の青松寺にあり、実際はそこで執務をしていたようです。 つづく