●連 載●

 

 『一人では生きられない、人の一生』

    百武 正義

 

 

 百武師は大学、曹洞宗教化研修所へと仏心会得の研鑽を積まれ、当山坐禅会の先導もして頂きました。また鶴見大学では永く事務統括に腕を振るい、正に人心交流の行事、規を当世に照らすといった柔和な方です。ここに一文あり。あの時代の光影とある和尚の成立、なかなかに訴えある語句の綴りを紹介申し上げます。                         住職   小林 貢人

 

 

 人は皆、なんらかの関わりの中で生きています。親と子ども、兄弟姉妹。近頃は、少子化問題で子どもの数が段々少なくなり、大きな社会問題にまでなっています。それなのに、親が子どもの命をあやめたり、子どもが親を殺したり、この頃のニュースには心が痛みます。それぞれに何らかの理由はあるのでしょうが、普通では考えられない事件です。親が子どもを、子どもが親を許せないと思う気持を思い計ることは、当事者以外には理解することはおそらく不可能でしょう。

 実は子どもの頃(中学校時代でしょうか)、私は自分の兄に、殺意を抱いた事が何度かあります。

 我が家は戦後の引揚者でした。両親と兄、姉と私と妹の六人で引揚げてきました。子ども四人を無事に帰国させてくれた両親には、今でも感謝しております。日本に帰って末の妹も生まれて、私の家族は七人になりました。開拓団での生活がスタートしたのが、昭和二十一年です。掘っ建て小屋での生活は、楽しい思い出がたくさんあります。九州、佐賀県小城郡南多久村笹原、その集落の離れに開墾の土地を国から頂戴したようです。隣接地には澱粉工場がありました。夏の暑い時期、風向きによるのですが、工場から出る廃棄物の腐ったような臭いにはまいりました。

 楽しい思い出の一つはお風呂です。屋外にドラム缶のお風呂、これは楽しかった。まず屋根がない。満天の星空との一体感、露天風呂の比ではありません。ただ、近くの川からの水くみは、私の仕事でした。私は水くみの天才になりました。天秤棒の両端に、満水のバケツをぶら下げ肩にかついで歩く。棒の両端を上下にしならせながら歩くとバケツの中の水は、サザ波となって中心に向かいます。水をこぼさず運ぶ技術を身体で覚えました。

 二つ目は商いです。小学校の三年生くらいから、中学一年生まで、姉と二人で商いに出かけました。リヤカーに品物(開墾した畑で作った農作物や薪)をいっぱい積んで、遠く炭鉱町まで引いて行きました。

 当時は石炭の時代で、佐賀の田舎にも三つの炭鉱がありました。小城炭鉱、古賀山炭鉱、別府炭鉱です。

 市場は活気づいて熱気ムンムンでした。市場といっても建物があるわけではありません。持参したゴザを広げて商品を並べます。まわりは皆、大人たちばかりです。良く売れました。不憫に見えたんでしょうね。そのうち顔見知りになって、「頑張ってね」とか、「この前の美味しかったよ」と声をかけてくれる様になったのです。開店して三十分位で完売です。何とも表しようのない充実感を味わいました。帰りは空のリヤカーでルンルンでした。

 兄の話に戻ります。兄は昭和九年生まれで、私より六歳年上。父に言わせると、いわゆる秀才だったとか、一度聞いたら忘れない、一度読んだら忘れない類の人間だったようです。その兄が中学校の時、風邪をこじらせ肋膜炎を患いました。結局その事が兄の人生を狂わすことになります。当時の佐賀県で一番の難関校に入学したのですが、転校をくり返し、最低の高校をやっと卒業しました。高校では持前の才能が悪い方に発揮されました。競馬、競輪にはしり、麻薬(ヒロポン)に溺れる。我が家は兄にお金をむしり取られ、貧困の中にどっぷり漬かりました。

 私は、兄さえいなければと何度思ったか知れません。兄が亡くなった時、母がポツリと言いました。兄にはどれほどのお金を貢いだか見当もつかないと。両親がどのようにしてお金を工面したのか、今となっては知るすべはありません。

 私は中学校を卒業と同時に、長崎市寺町一番地にある晧台寺という修行寺(専門道場)に入門することになります。そのきっかけは我が家の引っ越しにありました。

 我が家が佐賀の集落で暮らす頃、母の里は祖父母だけの生活になっていました。

 祖父母はその時代にしては珍しく、教育パパ、ママだったのでしょう。男の子は大学、女の子は高等女学校を卒業させました。そして子ども達は、それぞれ独立したのです。その母方の兄弟、姉妹の話し合いの結果、生活に困窮していた我が家が祖父母と同居することになったのでした。

 私の性格は、良く言えばその場の生活環境に順応するのが早い。悪く云うとお調子者です。友人はすぐに出来ました。

 その集落には、交番と清心寺という寺がありました。

 お巡りさんと住職さん、仲良くなるのは自然の摂理に以て至極当然の成り行きです。集落の慶弔やらもめごとやら、酒の肴には不自由しません。そのお巡りさんの次男・孝仁と同級生で、親友と相成りました。

 私は祖母と二人で日曜日になると、近くの街へ行商に行きました。もっとも祖母の商いは、押し売りまがいでした。「今日はいい天気だね」「あらまあ、おばあちゃん、いつもすみませんねえ」「これ、ここに置いて行くよ。お金は後でいいから」「ありがとう」。

 お茶を御馳走になり次の家へ。こんな具合。

 昭和三十一年、一九五六年正月。私の人生の転機が突然というか、突如やって来ます。例によって、お寺の住職さんとお巡りさんが酒を酌み交わしながら、住職云く「お前さんの息子、孝仁をわたしに預けんか」これがそもそもの初まり。

 孝仁は、それはそれは悪名高き悪でした。すばしこく、何時何処で何をやらかすか分らない。そういう人柄は、今も変わりません。「今でも本音のところは、変わらんよ!」と本人が言っている位だから。

 親父に「お前お寺に行け」と言われて参った。「百さんよ、一緒に行こうよ」と来た。「行くか!」と二人ならなんとかなるだろうということで、長崎晧台寺行き決定です。

 

 恩師との出会い

 晧台寺は、長崎市内の夜景が一番美しく見える風頭山の山麓にあります。七堂伽藍を備えた曹洞宗の名刹です。そこで出会った師匠が、受業師の稲富秀雄老師と法幢師の佐藤泰舜老師です。二人とも、悟りの境地に達した品格すぐれる素晴らしい人でした。

 昭和三十一年、当時の晧台寺の堂頭(住職)佐藤泰舜老師は、福井県大本山永平寺、熊澤泰禅禅師の随行長という役職を務めておられました。晧台寺には、一年に三〜四回お見えになる程度で、堂頭のいない修行寺を守護されたのが、院代という役職の稲富秀雄老師でありました。老師は還暦を迎える頃だったと記憶していますが、小柄な身体に火の玉のような情熱を潜ませ、仏道修行に真向勝負。そして負けを嫌う人でした。

 晧台寺の生活は、基本的には本山(福井県の永平寺、鶴見の総持寺)と同じです。生活規範に従って、淡々と修行の日々を送ればいいのです。

 唯ひとつ違うことがありました。それは、お檀家さんの家にお経をあげに行くことです。長崎では、毎月一回檀那寺の和尚さんが、各家々の命日に合わせてお経をあげる風習がありました。晧台寺には、当時千二百軒位の檀家さんがありましたので、毎日四十軒程の家に手分けをして月経に伺いました。これには多くの思い出があります。

 堂頭の居ない晧台寺を、院代の稲富老師は必死に守りました。十八名の大家族、血気盛んな雲水も居れば、気力に欠ける雲水が居る。そんな中に、定時制高校に通う小僧が私を含め三名おりました。この三名は、中学校を卒業したばかりだったので、さぞかし気をもまれたことだったと思います。

 稲富老師は、毎日のように云われました。

 「日常生活を(修行)を怠るな、自分の生き方を大事にしろ、自分の内なる誘惑に負けるな、邪念を捨てよ、陰徳を積みなさい、坐禅も作務も黙ってやりなさい」

 曹洞宗の教えは、坐禅、朝課、作務、食事など、日常の全ての行動を修行と位置づけます。行住坐臥の立ち居振舞いの中に、修行の結果は自然に現われると。

 しかし、親の心、子知らずです。夜の坐禅、提唱(講義)が終り、九時に開枕(就寝)の合図の鐘が鳴ると、先輩雲水たちの心は夜の街への誘惑に勝てません。繁華街まで徒歩五分、煩悩という名のエネルギーは、たちまちにして勢い込み、自制心はあっという間に木っ端微塵です。十時頃には夜の闇へ。

 私達小僧三名は、九時三十分頃夜学から帰り、いささか復習をして就寝です。毎日、午前四時起床なので、睡眠不足が続きました。正坐する、坐禅をくむ、お経を読む、作法を覚える、とにかく寺の生活になじむのは大変でした。

 稲富老師は、雲水の生活の乱れ、心の迷い、私達小僧の教育を、自身の修行に没頭する姿で、あるいは提唱という講義で、また叱咤激励の言葉で凛として導いてくれました。この若者たちを仏道修行へ、正しい生活へ専念させたいという堅固なまでの強い思いは、ひしひしと伝わってきました。

 「叢林(修行寺)は、大衆威神力だよ!」。これは老師の口癖でした。         つづく