平成21年 納めの観音・年末の会 説教

 (きずな) ─他者と自分をつなぐ想い─

           岐阜県 自法寺 住職  小栗驪P

 

 みなさん、こんにちは。さきほど、百観音堂でのご祈禱の前に、このたびご奉納となりました十一面千手千眼観世音菩薩の開眼供養のおつとめをさせていただきました。千手千眼とは、「限りない」と解釈していただけばよろしいかと思います。みな人の顔が違いますように、心も一様ではございません。その人、その時にあわせて、観音さまは限りのないお力によって、お救いをくださっています。

 私は本日、岐阜県恵那市より参りました。岐阜県でも東のほうでちょっと行きますとお隣の長野県。恵那山トンネル近くの山奥のお寺、自法寺の住職でございます。息子が大学時代より成願寺様にお世話になっておりますご縁で本日は参上いたしました。

 住職としてつとめさせていただいて間もなく半世紀、70歳になります。僧侶として住職として何ができたかなと最近よく思うわけでございますが、それらしいことは何もできなかったのではないか。ただ呼吸をしながら、朝は本尊さまの前でおつとめをさせていただく。そのくらいのことだったかなと思っているところなのです。

 私は小学6年生の4月、母に連れられて、開元院というお寺に修行にあがりました。その私の駆け出しの頃、少年期のあたりの話を本日はさせていただきたいと思います。

 

 父の戦死、そして終戦

 私の母は自法寺のございます飯地という集落に生まれました。父は恵那市のお隣、現在の瑞浪市日吉町に生まれました。出家をして、地元の名刹であります開元院三十一世逸見智勇師の最初の弟子になりました。名も勇三郎から隆禅と改名し、昭和一けた北野元峰禅師の頃、永平寺で修行。縁あって自法寺の住職になったわけでございます。

 母と結婚して、二男一女をもうけました。その父は、私の弟が誕生した昭和178月に、衛生兵として三十八連隊に入営いたします。

 最初は中国武漢あたりにおったようですが、編成がえになり、十七師団に属してニューブリテン島、日本軍がソロモン諸島進出の拠点としたところですが、そちらへ転属になりました。ツルブから「カ号作戦」というのに参加するわけですが、これが撤退作戦なんですよ。アメリカ軍に攻め込まれた日本軍は、ツルブからラバウルまでジャングルのなかを、ひたすらに逃避していくわけです。

 敵の姿におびえながら、険しいジャングルの道なき道を空腹を抱えながら進む。仲間は一人減り、二人減り…、そうして一部の人がようやくの思いでラバウルに集結したのでしょう。父もなんとかたどり着いて野戦病院に収容された。ですが、マラリアに罹ったのだそうです。たいへんな思いだったろうと想像いたしますが、そこで、戦死するわけであります。時は昭和194月の26日。大変な数の日本兵が、餓死、病死をしたそうでございます。

 自法寺へ父の戦死の公報がまいりまして、やがて骨箱も届けられた。享年三十三でした。

 父の葬儀の前、本堂の広い部屋の真ん中に薄暗い電気がぽっとついておりました。そこで母は骨箱を広げ、しくしくと泣いております。私は思わず、「お母ちゃん、なんで泣くの」と声をかけました。母は

何も答えません。

 母の肩越しに骨箱をのぞいてみましたら、なかには、「故小栗隆禅」と書かれた白木の位牌と、わずかばかりの砂と石ころが一つ入っているだけでした。母の姿が本当に小さく思えました。本当に哀れでした。この悲しい情景はいまだに頭から離れることはございません。

 父の葬儀が終わり、正真正銘の母子家庭となったわけですが、戦時中のことですから食糧も乏しく、母にはたいへん苦労をかけました。非農家ですからお米がなくて、さつまいもばかり食べたこともあります。春には、山に入ってリョウブという木の芽を摘んでご飯に炊きこんでかさ増しをしてしのぎました。また母方の祖父が、百姓をしながら製麺、製粉の仕事をしておりましたので、子どもの足で40分ほどかかる祖父のところまで時々訪ねてはうどんをもらい、食いつないだのであります。

 私は昭和20年の春、国民学校へ入学をいたしました。そしてその8月に終戦となったわけですが、15日はお休みでしたのに、なぜだか招集がかかりみなで校庭へと集まりました。そこで天皇陛下のおことばをお聞きしたわけです。天皇陛下のおことばは、子どもたちには何のことなのか全然わかりません。ですが、なぜだか無性に涙が出てきた。いま思いますと、先生方や周りの大人の様子をみて、その状況を子供心にも察したのだと思います。

 終戦を迎えて生活はいっそう苦しくなりました。終戦の翌年、新円に切り替わった記憶がおありの方もあろうかと思いますが、情報の乏しい時代、ましてやうちは母子家庭でしたのでよくわからないうちに旧円からの交換がはじまり、母はうまく交換ができなかったようでした。爪に火をともすようにして残していた紙幣の価値がまったく違ってしまったのですから、たいへんなことだったと思います。

 そんな厳しい状況のなかでも、田舎のことですから祭り事は盛んでした。6つの集落が秋祭りをそれぞれに行なっておりました。祭りがあれば、子どもは学校を休んで行ってもいいという時代でした。私は母の実家の集落と、お寺のある集落の祭りには休みをもらって遊びに行くことができた。

 お祭りで母の在所へ参りますと、お嫁さんがこんな大きなおにぎりを2つ作って、「たかちゃん、これで祭りを楽しんでおいで」と送り出してくれる。ふだんは口に入らないような大きなおにぎりが嬉しくて、いそいそと出かけて祭り見物をするわけです。

 村の人たちは浄瑠璃をしたり、芝居をしたりといろんな出し物をする。ある時、役者がせりふを忘れてしまったんです。幕の裏にいた人が「飛べ、飛べ」とせりふを教えた。そうしたらその役者さん、舞台から飛びおりてしまったんです。観客はとつぜんのことに大笑い。そんなぐあいに、祭りの時ぐらいは楽しく過ごしたんですね。戦後の混乱期といえども、そういうことは忘れませんでした。

 

 得度、そして母に送られて修行へ

 昭和2312月、私は父の師匠であります開元院の和尚さんから得度をうけるようにいわれました。得度の前日、このように頭を丸めて、頭の頂上に三本だけ髪の毛を残しました。当日は和尚さんがお唱えごとをして、その三本の毛を剃りとって得度をうけた。お檀家さん、親戚のみなさんも参列して、得度式が無事に済んだわけであります。

 当時は長男として生まれたら、家の仕事を継ぐということがあたりまえでした。特にお寺に生まれたわけですから、家族の誰かがお坊さんでなければお寺に住まうことは許されません。得度の意味もよくわからないまま、あたりまえだという気持ちのなかで事が進んでいったようであります。

 そして254月、私は小学6年になりました。家族と暮らす自法寺を離れて師匠のもと開元院へ行き、修行をさせていただくことになりました。

 開元院へ参りました当日はすこし雨が降っておった記憶があります。姉、弟とつらい別れを済ませて自法寺を後にして、通い親しんだ学校の下を通るときには校舎を向いて一礼し、そして先へ進みました。

 母の在所にも立ち寄り、ご先祖さまに手を合わせ、親戚のみなさん方にもあいさつをしました。別れの時はカーブを曲がって見えなくなるまで手を振ってくれた。そのことに感謝しながら、母と私は開元院へと続く道を進んでいく。

 当時のことですから母は和服でもんぺ姿。背負った柳ごうりのなかには私の衣や着替えが入っています。手にはお寺へのお土産。私はかばんのなかへ学用品、ふろしき包みにはすこしの生活用品を持って、ゴム靴を履いた姿でした。時々休憩をとりながら、山の道を母子で進みます。木が生い茂り、鳥の鳴き声や動物の声が聞こえてくる。雨降りでぬかるんだ滑りやすい坂をひたすら下っていきました。

 しばらく行きますと、木曽川にさつき橋という吊り橋がかかっています。これが大変な橋なんです。両岸には岩盤がそびえて、木曽川は渦を巻いて流れています。橋から川までの高さは100メートル以上あるでしょうか。長さは200メートルほどですが問題は足場の悪さで、20センチぐらいの板が2枚ずつ敷いてあるだけです。しかも結わえつけられているわけではなく、ただ敷いてあるだけなんです。一つ踏み外したら…、ということですね。

 さつき橋を渡る前にすこし休もうと、たもとに腰を下ろしました。そのとき母が重い口を開いて「開元院へ行ったら、言われたことをよう聞いて、勝手に帰ってきてはいかん」とだけ言いました。私はうつむいて、「うん」と答えるのが精一杯でした。

 この橋には4年生の時にも遠足で来たことがありました。そのときは友だちと一緒でしたから、吊り橋が怖くても楽しい思い出です。でも今度は不安な気持ちでいっぱいでした。母と二人、重たい荷物を持って足下の危うい、下を見るのも怖いさつき橋を修行にあがるために進む。でも、行かなければなりません。母のあとを一生懸命ついてやっとの思いで向こう岸に渡ったわけです。

 中仙道の細久手の宿を過ぎると、開元院の看板が出てきて、目的地が近づいたことがわかりました。母の足どりがゆっくりになったように記憶しております。

 やがて開元院の総門に到着。お寺では和尚さんはじめみなさんが出迎えてくれまして、本堂と庫裏との間にある三畳の部屋が私にあてがわれました。わずかばかりの荷物を母親と一緒に整理して、いよいよ修行生活がはじまったわけです。

 翌日、私は新しい学校へ行って転校のあいさつをし、早速授業を受けることになりました。2時間目が終わって、便所へ行こうと渡り廊下を歩いておりますと、きのう通った道を母が戻っていくのが見えた。何度も何度も学校のほうを振り返りながら。

 私は、追いかけて行って声をかけたい、そういう思いにかられました。でも母の姿は坂を下ってやがて見えなくなっていく。そこで母のことばが脳裏に蘇ったわけです。さつき橋のたもとで聞いた母のことば…つらそうにひとことだけ私に言ったことばです。私はこのときに、幼いながらも、修行をする、僧侶として生きていく、そういう覚悟ができたのです。小学6年生、47日のことでした。

 

 自分を支えてくれたもの

 開元院での生活がはじまると、すぐ5月に永平寺の熊沢泰禅禅師さまをお迎えしての大授戒会が修行されました。ですが、お寺にあがってまだ1ヶ月。お経も満足に読めませんし、だいたい何をやっているのか全然わかりません。

 ですが、嬉しいことがありました。毎朝禅師さまのもとへごあいさつに参りますと、ちゃんと一人前にお菓子と薄茶をいただけたんです。禅師さまは、毎朝「隆輝さん、がんばれよ」と一声かけてくださった。それが何より救われた気持ちがしましてね、開元院での生活に慣れたようでいてまだ地に足がついていない毎日でした。そんななかでお会いした禅師さまは、これが禅師さまかと子供心にも偉大に思ったわけでございます。

 禅師さまが法要を終えられてお部屋へお帰りになるとき、傍らの竹に目をとめられました。そして「その竹はなんだい」と声を掛けられたものですから「草屋根で使って黒くなったすす竹です」と申し上げた。禅師さまは「一本もらうよ」と手にとられて永平寺へお持ちになり、それを杖にされたんです。

 この杖は何十年もお使いで、私がおとなになってからもついてらした。そのお姿を拝すたびに、毎朝禅師さまが「がんばれよ」と声をかけてくださった少年時代を思い出しました。いまでも初心に戻る大切な記憶なのです。

 大授戒会が終わってしばらく月日が流れますと、私も少しの時間が持てるようになりました。自法寺のございます飯地は起伏の激しいところで、自転車に乗る習慣がなかったのですが、開元院には婦人用の赤い自転車がありまして、それで練習をすることになりました。最初は本堂前の平たんなところで慣れて、しばらくして山門から外へ出ました。門前の道は緩やかな勾配でペダルを踏まなくてもいい具合に進むものですから、そこで練習をはじめたのです。

 そうしましたら、50メートルぐらいは調子よく行ったんですよ。でもブレーキをかけることを勉強していなかった。田んぼのなかにそのままドーンと入ってしまって、後始末がたいへんでした。

 そんなことで自転車を少しずつ覚えて、中学になるころには、30キロの米を荷台に乗せても転ばないほどになりました。自転車に縁のない生活で自信はまったくなかったわけですが、やれば何でもできるなと、そこでひとつの自信がつきました。

 学校から戻った私には、いつも農作業か山の仕事があてがわれておりました。小さな身体には負担のかかる力仕事も多かったわけですが、とくに厳しさを感じたことがございました。それは土壁にする土を練ったときのことでした。素足で踏みつけ練っていくわけですが、3月のお彼岸前、まだ寒い時期のことでしたから、土に含まれた水分が凍り足に刺さるわけです。毎朝広い廊下の拭き掃除をして、冬は拭いたところが凍ります。しもやけやあかぎれは日常のことでしたから、氷の含まれた土を練る作業はなかなかたいへんなものでした。

 夜は和尚さんからお経の読みかたを教えていただきました。和尚さんはよく「読書百遍意自ずから通ず」とおっしゃいました。そのうちにわかってくるから、読んでいればいいということです。『修証義』を60年近く読ませていただき、この頃、すこしわかるようになったかな、とそんなことを思います。

 それからお葬式がありますと、学校を休んでお手伝いに行くんです。友達は勉強しているのに、私は抜けていくのですから、そのあとがたいへんでした。

 ある時、こんなことがございました。お経に行く先の家の名を忘れてしまったんです。仕方がないので通りがかった人に「おれの行くところどこやったか」と聞いたんです。お寺の小僧から聞かれたわけですからわかりますよね。「あそこやぞ」、「ありがとう」と別れたわけですが「開元院の小僧がこう聞いてきたぞ」と言いふらされて、ずいぶん恥ずかしい思いをしました。それからものを尋ねるときはよくよく注意をせないかんと、いまだに戒めとして思っております。

 そんなぐあいで修行時代にはいろいろとありました。橋のたもとで母に言われた言葉を忘れたことはございませんでしたが、それでも山門のそばへ行っては、「家へ帰りたいな」と思わずにはいられません。そしてとうとう思うところを書きしたため、母へ手紙を出したことがございます。そうしましたら紙がなかったんでしょうね。広告の裏に「お母さんもお姉ちゃんも弟の文ちゃんも、あなたが和尚さんになって帰って来てくれることをみんなでがんばって待っています。つらい日も多いでしょうが、辛抱してください」と、そういう返事が来たのです。先ほども申しましたが、お寺に住まわせていただくには家族にお坊さんがいなくてはなりません。

 私はこの手紙を読んで、二度と「家へ帰りたい」などと思ってはいかんと肝に銘じ、肌身離さずお守りのようにして持っているようになりました。やがて名古屋の日泰寺という専門僧堂に参るわけですが、そのあいだも母の手紙に守られて、修行に励むことができたわけです。

 師弟の絆、親子の絆、きょうだいの絆、そういうものが支えとなって今日の私があります。そうつくづく感じて日々を過ごしているのです。   合 掌