中学一年の皆さん

成願寺住職 小林貢人

 

 今日は。みなさんにおいでいただいてたいへん光栄です。見学の主旨に従い、三つお話をしたいと存じます。一つは防空壕や空襲の話。それからお寺は何をするところかを説明します。最後にお土産の一言と進めましょう。

 いまから五十八年前昭和二十年、日本の空をアメリカの爆撃機・艦載機が飛び回り、爆弾を落とし焼夷弾を撒き、機銃掃射を浴びせました。その八月十五日、日本は無条件降伏、負けたのです。私は中学一年でした。ですから本日、中学一年生のみなさんにお話をさせていただくということに、なんともいえない感慨があります。私にとって最も忘れられぬその数ヶ月を中心に、どんな世だったか、どんな中学一年生だったか、お聞きください。

 

 私が小学三年、アメリカとの戦いが始まりまして、初っぱなは日本の勝ち戦、イギリスの植民地支配の拠点シンガポールをうち落としたとき、お祝い旗行列までしたのです。アジア人が自治を取り戻す「大東亜共栄圏」の実現近いと言われました。

 ………でもそのときアメリカ国務省は、もう対日占領計画の会議をしていたんです。コロンブス以来世界地図を自分流に染めてきた欧米勢力にとり、アジア一国のささやかな抵抗など、すぐ蹴飛ばせると自信満々だったのでしょう。

 戦線を広げ過ぎた日本は、一年過ぎると国力あるアメリカにどんどん押されます。三年目、ビルマや太平洋から悲惨な負け戦が伝えられます。

 中学に入る前、小学校六年の時から空襲がはじまりました。なぜかといえば、サイパン島がアメリカに占領され飛行場ができた。そこから続々とB29爆撃機が飛んでくる。富士山を目標に到来し西から東京へ入るんですね。青空のなかをスーッと編隊で飛んでくる。パラパラザッザーッと爆弾を落とす。

 昭和二十年の一月十九日、私は調布にあるお寺に住んでいました。今は住宅地ですが、当時は純農村でした。北方に中島飛行機の工場、西に調布飛行場、東には高射砲陣地・電波隊基地もあり真昼と真夜中に爆撃がある。高射砲というのはわかりますか。わからないな。飛行機が飛んで来れば迎え撃つ大砲。ですけれど日本の高射砲の弾というのは八千メートルぐらいまでしか行かないのです。B29という飛行機は一万一千メートル上を飛んでくる。爆撃のとき下へ降りてくるんですね。そこへボーンと打ち上げて爆破するのです。見て下さい。これが高射砲の弾のかけら。飛行機に刺さって機体を裂く。ひじょうに鋭い。

 この弾が上で爆発しないで、私の八メートル前に落っこって爆発した。幸いに住人一同怪我なしでしたが、四寸(十二センチ)角の柱に穴が空いてるのを見てから、気を失うように座りこみました。この高射砲の弾のかけら、記念品なんです。その頃の中学一年というのはみんなそんなような経験をした。

 いま住人一同と申し上げましたが、寺は港区の小学生六三人を預かっていました。集団疎開といいます。街場の焼夷弾空襲から守るためクラスごと田舎の寺や旅館に引越して学業を続けたのです。集団疎開は子供・先生につらい生活を強いましたが、受入れた地元方にも苦しい経験だったのです。話が外れました。疎開の話は別の機会にしましょう。

 高射砲だけではない。日本は「飛燕」という飛行機をつくって体当たりで落っことした。私も二回、ぶつかって、いくつかの破片となりゆっくり散って行く光景を見ました。私の姉は落下傘が開かずまっすぐ落ちてゆく飛行兵を見たと泣いていました。

 

 昭和二十年三月になると日本各地は間断なしの空襲に見舞われます。東京では隅田川方面の三月十日、品川からこのあたりまでの五月二十五日の焼夷弾空襲が最大でしょう。

 焼夷弾とは、木造家屋が密集する日本の都市攻撃用に開発され、直径十センチ長さ六十センチほどの六角形、油ゼリーのつまった罐を七十二本束ねた火炎爆弾です。地上数十メートルのとこで爆発、火のついた罐が油炎を撒きながら霰のように降る。あちらこちらから火事が出るので逃げ惑い、追いつめられてたくさんの犠牲者がでました。

 この近くの石原さんの悲しい回想記を読みます。

 

 ……ある夜、サイレンの音で外へ出ると、渋谷方面の空にアドバルーンのような照明弾がいくつも落とされました。初めて見る光のものすごさ。暗い夜なのに、足元に落ちている針さえ見えるほどです。

「あとから飛行機が来る、危ないぞ」と警防団の人たちにうながされ、夢中で成願寺へ走りました。

 飛来するB29の大編成が、ものすごい爆音をたて頭上すれすれに飛び去り、そのたびに高射砲が一斉に発砲されます。その凄まじさ。破片や流れ弾にやられた人も多かったと思います。空襲のたびに大きな荷物を抱え、子供の手を引いて、成願寺の防空壕へ逃げ込みました。足は震え、中に入っている人たちは、誰も口をきくことさえしません。恐ろしくて、じっとサイレンの音の止むのを待つばかりでした。空襲解除のサイレンで、「ああよかった。今夜も家へ帰れるか」とほっとしたのもつかの間、ふたたび寝ている子供を引きずるように防空壕へと走ったこともたびたびでした。中野で、昭和通り方面が受けた空襲の被災者は三千人とも言われます。

 私たちの受けたもっとも大きな打撃は、五月二十五日の空襲でした。夜の十時すぎだったでしょうか。私と十歳の娘は赤ん坊を一人ずつ背負い、燃えさかる火の中を逃げ出しました。熱風にまかれ、足がすくんで思うように進めません。成願寺が危ないと言われ、本町通りへ出ました。

 表通りの中野郵便局は燃えさかり、火の粉は容赦なく襲ってきます。次々に割れる窓ガラス。その時までは、十五歳になる甥も一緒でしたが、はぐれてしまいもう会うことはありませんでした。被っていた布団はどこかへ飛ばされ、まともに歩くことさえできません。どうにか宝仙寺の仁王門まで来たところで、掘りっぱなしの防空壕の中に、足をすべらせ落ちてしまいました。一メートルちょっとの深さが、もう立ち上がれないのです。そこにはすでに一人死んでいて、その服のすそは燃えています。焼けただれたトタン板が、真っ赤な木の葉のように舞ってていました。

「足が立てないよう、お父さん、助けて、あついよう」と叫ぶ娘の着物にはもう火がつき、背中の子供は泣きわめくだけ。息を吸えば火の粉が入り、吐く息さえ苦しく、三人の子供の泣き叫ぶ声に、「どうぞ神様仏様、助けて」と、私はひたすら祈るばかりです。熱さと悲しさにどうする事もできません。

「苦しいのは息が止まるまでよ。もう少し我慢するのよ」と、子供を抱えて震える私の手の肉も、やけどでじんじんと落ちていきます。

 そのうちに、娘の声が聞こえなくなりました。私の頭もボーッと分からなくなりかけた、その時、私の背中にいた子供が「ギャーッ」と叫びました。その泣き声にはっと我にかえり、「まだ立ち上がれるのかしら」と土につかまると、おもいきりの力で這い上がりました。目の前には真っ赤に燃える仁王門。裸足もいとわず、火の中を這うようにして門の中まで来たところで、気を失いました。気がつくと、警防団の人が墓地の中まで運んでくれていました。宝仙寺の本堂は、明け方まで燃えつづけました。

 朝になって警防団の人に防空壕の中で子供が死んでいるからと言うと、連れてきてくれました。私が編んだセーターも、足も真っ黒。赤ん坊をおぶったまま、炭のようになっていました。もう、どうしようもありません。それから警防団の方が、リヤカーで淀橋病院へ運んでくれました。その方たちに本当にお世話になったのに、どこのどなたかは結局分からないまま。ただ感謝しているだけです。いまだに宝仙寺の前を通れば手を合わせています。

 淀橋病院では、廊下にマットを延々と敷きつめて、死んだ人を並べてありました。病院に入ってから、背中の子は息を引きとりました。

「おぶう、おぶう」と水を欲しがって……

(成願寺報十五号から抜粋)

 本町一丁目の或る家は一家六人全滅です。

 

 今のアフガニスタンを見てお判りでしょうが、アメリカ軍の攻撃は殲滅主義なのです。ピンポイント攻撃なーんてウソ。殲滅主義。アメリカと限らず戦争となるとどの国家どの民族もこの理屈になる。

 いま、寺の裏山、墓地で時々殺虫剤を撒く。蚊が出て痒いし、近所迷惑だからです。しおからトンボやもんしろ蝶は可哀想ですが、分けようがないからいっしょに殲滅する。これとアメリカ軍の攻撃はそっくり。相手はゴキブリとしか見えない。だから原子爆弾落としたし、劣化ウラン爆弾を平然と使う。

 もっとも私とてアメリカ東海岸に大隕石落ち、無人の荒野になればよいと、その頃夢想し、祈念していました。

 火もおっかないけれども、焼け野原になると今度はここへ艦載機が降りてきて、そして機銃掃射がざーっと。その機銃掃射というのはまことにこわい。私達は中学校の帰りに出会った。艦載機がふわーっとおりてくる。操縦士のサングラスと笑ってるような顔が見えるようだ。ドラム缶置場に逃げ込んだとこへパンパンパン。お尻の骨が溶けるような怖さでした。

 『中野の戦災記録写真集』という本がある。ぜひみなさんごらんになってください。そのなかの写真をコピーしたのですが、こういうふうに中野の駅から新宿にかけてまったく焼け野原だった。一つも残ってない。人もたくさん死んだ。食べる物もないし、怖い苦しい日々でした。また陸海の兵隊・従軍看護婦、いまの八十九十ぐらいの人ですが、その多くが海外の戦地で死んだり病気になったりした。

 ここにグラフがあるのですけれども、中野区の人口が昭和二十年にはこんなに少ないんです。

 

 いまみんなに見ていただいたのが防空壕です。普通は防空壕というのは自分の家の庭先や縁側下に掘った。危険だから戦争が終わると同時に埋め戻したのです。このお寺は崖を背負っていて横に掘っているので、戦後五十数年そのまま残ったのです。

 私が育ったのは調布の田舎のお寺でしたから畑に穴を掘っていた。ある日、爆弾が近くへ落っこってズズズーッと土が崩れて埋まってくるのです。動けない。なにも抵抗できず、怖い以上に悔しくって涙がでた。はっきり思い出します。

 あの防空壕のおかげでもって成願寺のお釈迦さん、正面のあの方、本尊様が助かった。鎌倉時代の美しい仏像です。あそこの観音さまのお掛軸をごらん下さい。あの真ん中に線がある。上と下で色が違う。防空壕の中で濡れ、カビたんです。大部分は焼けたけれども、大事なもの、仏様と古文書などは残った。防空壕のお陰です。

 

 ここに昭和二十年の中学二年生の記録があります。この本にありますけれども、朝起きると学校へ行って、教練、これは兵隊さんのまねだ。午前中、教練、そして午後からはシャベルをもって爆弾の穴を埋める。そして帰ってきて一休みした後、グラフのこの黒い部分は空襲です。空襲があるものでみんな防空壕のなかに逃げ込んでいった。そういう生活でした。私もそうです。中学に行く時には、カバンを肩にかけ、シャベルをもっていった。授業は二時限。その後、教練。午後は土塀築きと畑仕事だった。

 女子は、野方の女学生の記録。朝起きるとまずは農作業です。その頃の野方のほうは、畑がいっぱいあったものだから、朝早くから農作業をした。その後、学校へ行くのではなくてみんな工場へ行くのです。工場で勤労奉仕といって、兵隊さんの服を縫ったり、弾をつくったりした。帰ってくると、夜の空襲があって、ゆっくり寝てられない。君たちのように学校から帰ると勉強、なんて状況でない。今の中学生は恵まれている。空襲があるわけではないのだから、しっかり勉強しなきゃ世間に、そして戦争で殺された先輩たちに申し訳ないじゃないですか。

 

 そうしているうちに、日本はこれはとてもかなわないとわかってきます。ところが、その頃の中学生というのは「絶対日本は負けない」と思いこまされているわけです。日本は第二次世界大戦まで負けたことないのですから、私も中学一年の時、神州不滅(日本は神の国)、絶対負けないものだと思っていました。

 ところが八月十五日になったら天皇陛下が「日本は負けました」と。ひじょうにがっくりきて、もう何にもわからない。君たちは「虚無」ということばを知らないかもしれないけれども、要するに何もなくなることです。足下の地面がふっとなくなる、そういう感じ。あの八月の日のショックは、昭和九年生まれぐらいから上の人であればみんなおんなじようにもっています。

 さらに日本人は追い討ちをかけられます。というのはそれまで地球上を支配し、世界の富を略奪するアングロサクソン勢力からアジアを開放する正義のリーダーが日本であり、私たち小国民はその目標実現へと勉強していたのです。大東亜戦争(太平洋戦争)は聖戦でした。

 それが八月十五日から一転、戦争は日本が悪意で始めたもの、「この十五年の世界混乱は日本人の悪逆が因」と言われるようになりました。大部分の日本人には残酷すぎる宣言でした。歴史の教科書はもちろん英語の本にいたるまで、戦時日本の記述はすべて墨で塗りつぶさせられたのです。自分の手で。

 昭和二十年、日本歴史最大の年。まさにその時、私は中学一年。君達、中一の顔ひとつひとつにさまざまな想いが輻輳するのです。