中学一年の皆さん(第二回)

成願寺住職 小林貢人

 

 君たちも知っているように、お寺では亡くなった人の冥福を祈り、お葬式を行なう。この過去帳という記録によると、成願寺ではその頃、年に七十人ぐらいのお葬式があった。それが、昭和二十年は百六十七人。空襲、戦死、海外からの引揚げなど、いろんな悲惨な状況と食糧事情の悪化から、例年の二・五倍近い人が亡くなった。全国統計でも例年平均死亡率一・六%、昭和二十年には二・七%なんです。

 戦争が終わって、爆弾の恐怖は無くなったけれど、ひどい食料難の時代となりました。働き手が戦場・工場にとられて農漁村は荒れ、交通機関はアメリカ軍の空襲と艦砲射撃で半分マヒといった姿。

 病気になっても薬はない。まず食べる物がない。白いご飯、ゆで卵なんて夢物語。私の姉も栄養が足りなくて亡くなりました。兄と私が三浦半島城ヶ島まで行ってやっと魚を見つけたのですが、枕元においたときは既に食べる体力がなく「ありがとう」と目で合図するのみでした。今もその時の魚、カマスに出くわすと、私はじーんと胸がつまります。

 引越してゆく隣のおばさんから鶏をもらった。勇躍それを捌いたんですが、皮が骨にこびりついて肉がない。砂肝を開けたらガラス屑だけ。人間の食べるものがないんだから、まして鶏はゼロ。肥えていればおばさんもくれるはずがないと、合点しました。

そういえば私らの少年時代は、鯉鮒はもちろんイナゴ、赤蛙を捕まえては食べたものです。鶏捌きも自然に覚えました。

君達はどうですか。生きている魚、鳥を捌いて食卓に乗せる経験がないんじゃないですか。中学の家庭科授業でやってみるべきです。そうすると、食に始まる私たちの生活は、他の生物の命をもらってこそ成り立つということが肌でわかる。

 君達も腹ぺこの時があるでしょう。でも一、二時間の我慢で済む。あの頃の腹ぺこは腹の皮が背骨にくっついているのがわかるのです。しかも次の食物の当てがない。姉は卵が手に入れば死ななくて済んだろうといわれました。私も駅の階段、手摺りにすがっても上がりずらいことがありました。いつも腹ぺこだった。配給されるのは虫のわいてるザラメ糖、脱脂大豆……これはまずいもの、思い出すのも嫌だ。

 それでも農村の寺である私の家など、全国的にみればはるかに恵まれていた。手足を奪われた傷痍軍人、空襲で家人と別れた浮浪児、夫に戦死され幼児を抱えた未亡人、すべてを失った海外からの引揚者など、凄惨な姿が満ちていました。アフリカ・アフガニスタンの難民の写真、皆さんも見るでしょう。あの姿がたった半世紀前の日本にもあったのです。

 ある引揚者の文章を読みます。

『四十四年間、母は後悔を胸に』

「子どもさんをしっかりと抱きしめて、育ててあげて下さいね」。間もなく八十歳になる母は、若いお母さんたちに、口癖のように言葉をかける。私もそう教えられて、二人の子どもを育ててきた。なぜ母がこう言い続けるのか、父が逝ってしまった今、このことを知っているのは私だけになってしまった。 四十四年前の太平洋戦争の敗戦後、私たち家族九人は中国の東北部にいた。襲撃され無一文となり、収容所で十ヶ月の難民生活を送って、昭和二十一年の春、日本にやってきた。

 この間に、家族は五人になった。食べるものもなく、伝染病もはやり、学齢前の子どもはほとんど亡くなった。両親も四ヶ月の間に四人の子を失った。

 なかでも、ジフテリアに感染し、形ばかりの隔離病棟で亡くなった六歳の弟、みつるに対して、母は悔いを残したのだと思う。

 もと女学校であった病棟には、暖房はもちろんなく、窓ガラスも破れていて、零下三十度の寒さは病気を一層悪化させた。弟の命はあと二、三日だろうと医者に言われていた。

「みっちゃん、もうおめめも見えなくなった。お母さん、みっちゃんのことそっとだっこして│」。弟はか細い声で母にせがんだ。しかし、母は厳寒の中で危篤の子をだっこしたら、そのままくずれるように死んでしまうのではないかと恐れた。

「みっちゃん、今夜はこんなに寒いでしょう。あした暖かくなったら、たくさんだっこしてあげるからね」。みつるはおとなしくうなずいた。だが、次の日を待たずに弟の命は絶えた。母は四十四年間、みつるを抱きしめてやらなかった悔いを胸に生きてきたのだろう。

「お母さん、わが家の息子たちは、もう抱きしめられないほど大きくなってしまいました。今度はこの子たちの連れ合いにお母さんの思いを伝えます」。私は、会津にひとり住む母にそっと呼び掛ける。

(鈴木政子さん 平成二年三月一六日朝日新聞所載

 これが戦争と、その結果です。

 それなら戦争をしなければいいではないかと思うのです。 君たちも、もしも戦争があったら兵隊へ行って死ななきゃいけない。嫌でしょう。

 私が中学一年の時は、しばらくすると多分死ぬだろうと思っていました。アメリカ兵が上陸したら、その戦車の下へ仰向けに這っていって爆弾を貼る。亀の子爆弾といわれた。その時に臆病な私は震えるだろうな。立ちすくんでそのまま撃たれるんだろうな。でも、自分が死ぬことによって日本は助かる、日本は勝つんだ。どの中学生もいっぱしの兵隊だと思っていたのです。

 今の北朝鮮で金正日のためなら命を捨てるという若者たちもこんな心情だと推察しています。

 戦争はごめんだ。アメリカ核兵器のお陰かはともかく、日本は戦争をしばらくしてないからいま豊かになって、君たちもおいしい物を食べられる。電車でメール中、機銃掃射を浴びるなど考えもしない。

 人類始まって以来いろんな部族、国がしょっちゅう争ってきましたが、この五十年の平和日本生活を全世界にPRすべきです。平和がまず一番なのです。

 ところが、平和な世界では困る人たちがいる。たとえば兵器の生産、輸出をしている国なんです。兵器は信じられない高価格、その機械を輸出してこそうまい汁を吸える。兵器産業資本家およびそれに結びつく人たちは戦争近し、の緊張が大好きだ。そういう人たちが戦争をしばしば起こすんです。兵器を造れば使ってみたいのが人情。期限切れ前に理屈を付けて戦争を起こす。自分は怪我したくないから遠いところのA国B国を喧嘩させたりする。

 もう一つ。はじめにも触れましたが、ここ四百年ほどの世界の歴史は西欧文明の拡大とそれを受ける側の反応で流れてきた。

 西アジアアフリカでの民族紛争も東アジアの国際緊張も、元をたぐれば分割して統治せよと地元部族間の対立を煽ったりしてきた西欧諸国の植民地政策から出たものが多い。現在の世界政治経済の問題も、最後は西欧諸国支配層の意思尊重。残念というかこれが現実だ。

 しかし、アメリカ、西ヨーロッパ勢の世界支配拡大のための外交、戦争に対し「それだけでは困るんです。世界全体が平和で豊かになればあなた方の品物だってもっと売れますよ。そちらの物差しだけで考えないで……」などと日本が発言、実行しなければいけないのではないかと思うのです。

 ところが日本の政治家、外交官の言うことを聞いていると、なかなかそうはいかない。アメリカの言い分だけが正しいんだというふうになる。なぜか。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日に話を戻します。

 戦争終わったその翌朝、私たち中学一、二年生は校長先生を先頭に立て皇居まで行進しました。二重橋前広場で全員手をあわせ、「天皇陛下申しわけありませんでした。私たちの力が足りなくて日本が負けました」と謝った。天皇陛下の力ではなくてわれわれの力が足りないから負けたんだと謝りに行ったわけです。

 いま君達は「それどうゆうことなの。バカバカしい」と思うでしょう。でもあの時は真剣にそう思った。切腹して謝った人も何十人かいたのです。

 帰校後いろいろ訓示があって、最後が若い市川先生。カーキ色の服、黒いメガネの縁が忘れられません。飛行機の爆音消えた快晴の昼すぎでした。

『これからアメリカ軍の日本支配が始まる。いまアメリカはどう考えてるだろうか。アメリカは歴史の新しい国で、伝統のある国を何となく恐れている。そこで日本人古来のいろんな習慣、感覚を古くさいと排除し教育程度を低め、アメリカ文明に属化させるよう占領してゆく、と私は考える。

 アメリカは必ず3S政策でやってくるだろう。それは、スクリーン、セックス、スクールだ。

 スクリーンは映画。まずアメリカは映画を通して、アメリカの生活はありがたいと、繰り返し見せつけるだろう。次はセックスだ。君たちはセックスという言葉を知らないかな。要するに色気違いにすること、君達が勉強より女学生を追っ掛けるようにすることだ。腑抜けな男を多くする。 最後にスクール。日本の学校改革をする。学校改革をして日本じゅうをアメリカ風、二流のアメリカ風にするであろう。

 これからの荒波の中、君らは眼を細めて時代の先を望み、しっかり生きていってほしい。』

 このようにおっしゃった。いま考えてみるとひじょうな卓見であった。あの時点でそこまで言い切った人は市川先生以外、まず居なかったと思います。

 スクールをアメリカ式にしたので、アメリカ式の考え方はどんどん浸透していった。

 アメリカの教育、制度が悪いというのではないですよ。学んだ所、学ぶべき所が溢れるほどある。言論、人権、女性地位の問題等、近来の日本が様変わりの進歩を遂げたのもその恩恵の例でしょう。

 その評価はともかく、昭和初年代、ABCDラインと名づく経済圧迫で日本を締め付け、日本に戦争を始めさせ、日本を空襲し一般市民をたくさん殺したアメリカが、占領後一変、腹ぺこ日本に食料援助したりして、一歩ずつアメリカ式にしたてていった。 アメリカの安全のために。

 ですからいまでも、アメリカのやること、たとえばイラク攻撃。まったく一方的な攻撃です。たいがいの戦争は相互に原因があってはじまるんだけれども、今度のイラク攻撃はどうも一方的だ。ただアメリカの国益のため、いや、アメリカの一部の人々のためにイラクを攻撃する。

 世界の石油は大部分アメリカが支配していますが、イラクだけは言うこと聞かぬ石油大国だから「悪の枢軸」と喧伝する。そしてアメリカが破壊したあとは日本がお金を出して復興してやれ。はいわかりました、と日本。そういう悪循環になりつつある。

 それはどうも、戦後のアメリカの占領政策の要、スクリーン、セックス、スクール改革3S政策がだいたい順調に進んできて、アメリカの理念イコール日本の理念との大勢になったというべきかな。

 これからの三、四十年、アメリカとがっちり手を組んでいなければ日本は成り立たない。しかし先ほど申し上げたように、日本全体が文化経済の力をより充実し、盲従ではなく、提携を基本に現代世界史に参画してゆくべきではないでしょうか。

  君達はどう思う。         (以下次号)