平成十四年 秋の観音詣り説教

仏さまの三つの教え

臨済宗大本山円覚寺教学部長・壽徳庵住職 齋藤宗憲

 

「冤親平等」に始まる円覚寺

 本日は円覚寺をお詣りいただきましてありがとうございます。みなさまは曹洞宗ということですが、私どもも同じ禅宗で、ここ円覚寺は、臨済宗の十四ある本山の一つでございます。曹洞宗には二つの大本山、鶴見に總持寺と福井に永平寺がございますが、私ども臨済宗には、妙心寺をはじめ、南禅寺、東福寺、建仁寺など京都を中心にございまして、鎌倉に円覚寺と建長寺がございます。

 円覚寺の開基は北条時宗公、開山は無学祖元禅師という方です。前にNHKで時宗公のドラマをやっておりましたので、ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、最後のほうで出てきたお坊さんが無学祖元禅師。この方が時宗公の願いを聞き入れ、中国からお見えになって、初め建長寺に住し、その後に、円覚寺の最初の住職となられました。禅師が日本にこられた時が弘安二年(一二七九)。将軍時宗公の御歳十八。二度目の蒙古襲来(弘安の役)の頃でした。

 当時、蒙古襲来について、時宗公が禅師にお尋ねをされたエピソードが残っています。外国からの敵にどう自分は対処すればいいのかと、禅師に相談しているわけです。その時の禅師のお言葉が「莫煩悩」。

 これは、くよくよしたり、悪いほうへ悪いほうへと考えすぎたりする「煩悩」を取り除けということ。「煩悩」を取り除いて、道をまっすぐ進め、そういう激励だったわけです。禅師の勢いといいましょうか、お姿に時宗公はこころを打たれ、全国の武士とともにとにかく日本を守るんだという強いお気持ちになられた。蒙古軍は台風により多くの船をなくし、結果日本は国難を逃れましたけれども、時宗公が強いお気持ちを持たれたことが、日本を守ったのではないかと思うわけでございます。

 弘安の役の後、亡くなった日本の兵士、また蒙古の兵士の御霊を弔う、味方も敵も、親しき者も恨む者も平等に供養する。冤親平等ということばがありますが、そういう仏教的な大きなこころで建立されたお寺が、この円覚寺ということなのです。

 

 仏教の基本的な教え

 外国に旅行に行きますと、宗教を聞かれることがあります。外国ではキリスト教やイスラム教などの信者が多いようですが、私たち日本人は仏教徒が多いと言われておりますね。では、私たち日本人は「お釈迦さまの基本的な教えって何ですか」と聞かれた時に、うまく答えられますでしょうか。

 外国の方は、自分の信仰する宗教はキリスト教だと言えば、だいたいの人は毎週日曜日に教会へ行かれています。ですからある程度はキリストの教えを知っておられる。そこへいくと私たちは、お墓参りをしたり、ご先祖さまのご供養をしたりということは熱心にしますが、仏教の基本的な教え」がわからない方が多い。そこで、本日はお釈迦さまの三つの教えをお話させていただきたいと思います。

 三法印といいます。一つは諸行無常ということです。みなさん方の年齢ですと、痛感しておられる方も多くいらっしゃるのではないかと思います。平均寿命が八十を越えてまいりましたけれども、そのなかにありながらも、若くして亡くなる方がおられる。かと思いますと、百を越えても元気な方、点滴で何か月も命を保っている方もおられる。

 平家物語に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とはじまり、「盛者必衰のことわりをあらわす」とあります。つい最近まで隆盛を誇っていた人が落ちぶれてしまう。形や物というのは常に変化している。わずかな命で消えてしまう人があれば、長く生きる人もある。この世の中は「常」ではないというのです。

 もう一つは諸法無我、「私が、私が」、「私がこうやったんだ」と人はよくいってしまいがちですけれども、「私が」といっても、自分のものは一つもないというのです。「私の衣だ」、「私の扇子だ」といってみても、どれも自分でつくったわけではない。人の労力によって、衣を着せさせてもらっているし、自分の命も、親から授かったものであります。私がやったとか、私が生きているとかいってみても、自分だけでできているものは何一つない。

 三つ目は涅槃寂静。お釈迦さまが亡くなったことを涅槃と申しますが、もろもろの執着、煩悩がなくなり、「安心」が得られた状態。仏教では「あんじん」と読みまして、悟りの境地、安らかな状態を涅槃寂静といいます。

 お釈迦さまの根本的な教えが、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、この三つで表されていると思います。ですが現代は、お釈迦さまの時代とだいぶ様子が変わっていると思うのです。お釈迦さまの時代は、いまよりずっと寿命も短く、災害や飢饉に遭ってたくさんの人が亡くなったでしょう。いまは、たとえば台風が来ても、ある程度の予測ができますから、備えができて災害で亡くなる人もだいぶ減りました。また医学が発達し、むずかしい癌の病気、心臓の病気、脳の病気などでもずいぶん助かる人が増えてきた。また、いまは男女平等の時代。封建時代のころのように、「俺が、俺が、」「俺がご主人さまだ」と威張っている時代ではなくなりました。

 

 前向きに生きる

 では現代に生きる私たちがどういうふうにお釈迦さまの教えを解釈すればいいか。まず、諸行無常は、過去にこだわりすぎないということではないかと思うのです。物事は変化します。それゆえに、常にこころを前向きにもっていなければならない。

 今日、みなさん方のなかに、ひょっとしたらお子さまを亡くされた方がおられるかもしれない。つれあいを亡くされた方がおられるかもしれません。そういう悲しみというのは消えないです。消えなくていいんです。でも、それをいつまでも悲しく思って落ちこんでいたら、亡くなった人のためになりません。ほんとうの供養というのは、亡くなった人の分まで懸命に歩もうという生きかた。前向きに生きる、ということではないかと思うのです。

 私は長年、骨髄バンクの運動をしております。骨髄移植は、血液の病気の患者さんに、健康な人の骨髄を移植し、白血病や再生不良性貧血の完治を目指す治療法です。そのドナー(提供者)には、患者さんと血液のHLAという型が合わないとなれません。きょうだいであれば、四分の一の確率で合いますが、きょうだいで合わなかった場合、約五万人に一人。現在の患者さんの数を考えますと、ドナーが三十万人いないと、全員は助からないのです。

 いまドナー登録してくださっている方は全国で十二、三万人。ですがつい十年前までは、公的な組織すらなかったんですよ。それが、お子さんを白血病で亡くした人、ご自分のつれあいを亡くしたという人たちが、亡くした子どもの分まで、あるいは夫や妻の分まで、何か社会のために働こうという強い意志をもって活動をし、こんにちに見られる公的な骨髄バンクができ上がったのです。深い悲しみをこころに持ちながらも、前向きに、ひじょうに生き生きとして、ボランティア活動をされている方が多くいらっしゃいます。そういう人はすばらしいですね。

 いつまでもいつまでも深い悲しみに落ち込んでいるのではなく、また人のいっときのミスをずうっと根に持って、人を恨んでいてはいけないということ。それが現代風の諸行無常の生きかたではないか、こう思うわけでございます。

 

 ご恩返しが人生

 では次に諸法無我を現代風に考えてみますと、自分が生きている、私が生きている、というのではないということがまずあります。人はありとあらゆるものによって生かされているのです。この体は自分で作ったものではありません。またこの体を保つためにいろいろなものを必要としています。たくさんの要素ではじめて成り立っているのです。

 一休禅師に、「借りおきし、五つのものを、四つかえし、本来空に今ぞ基づく」という辞世の句がございます。どういうことかと申しますと、五つとは地・水・火・風・空の五大。万物を形成する五つの元素のこと。人は死ぬ時、お借りしていた四つをお返しするというのです。

 生きているということは、この世に生まれてきたということは、ほんとうにまれなことです。ですから、いただいた命にたいしてご恩返しをしていかなくてはなりません。

 よく、「すみません」と謝りのことばを言います。これは、いただいた命、ありとあらゆるものへのご恩返しが「すみません」。要するに済んでいないということです。生きるということは、ご恩返しをしていくこと。それがいま風の諸法無我の教えではないかと思うのです。そういうことをわかって「すばらしい人生」と思うことが、さらには涅槃寂静の境地ではないかと思うわけでございます。

 ですがなかなか人間というものは煩悩や執着がとれません。ですから、修行ということが必要なのです。その修行の八つの正しい道、基本的あり方が、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道という教えにあります。

 物事を正しく見、正しく思い、正しい言葉を話し、正しい生活をし、誤った生活から離れ、正しい努力を行い、正しい道を思い、正しい禅定を修行する。それにはまずはやはり坐禅をしていただき気持ちを落ちつけて、呼吸を整え、体を整え、そしてこころを整えていくことが大事かと思います。ゆっくりと構えて、冷静に物事を判断する、そういうお気持ちが大切だと思います。

 

 良い執着を持って生きる

 執着ということを悪いことのようにお話しいたしましたが、人は、いい執着も持っているのではないかと思います。それは生きることに対しての執着、これは絶対に失ってほしくない。

 私の父のことを少しお話させていただきますと、父は脳梗塞で倒れまして、しばらく入院生活を送りました。だんだんことばが話せなくなりまして、筆談で意思の疎通をしておりましたが、ある時、「私の一生のお願い」と書いてよこしました。私のうちは、この近くの壽徳庵というお寺ですが、その紙には「壽徳で死にたい」と書かれていました。当然、家に戻れば介護がたいへんで、家族に迷惑がかかるとわかっていたと思うのですが、それでも一生の願いとして書いてよこしたのです。

 病院では何回も何回もベッドの柵を越えて自分の足で家に帰ろうとしました。転んで頭にケガをしましたが、それでもベッドの柵を越えようとする。そのためにだんだん柵が高くなりまして、ふっと見たら、なんだか檻の中に入れられたようになりました。それでも家に帰りたいという執着なんです。

 諸法無我、人間は一人で生きていないんですよね。人の世話になっていいんですね。最初から、人に迷惑をかけて生きているんです。

 それから、最後のほうでは、軟らかい物しか食べられなかったのですが、ある日、夕食のあとにもうちょっと食べたいというんです。それは食べすぎだよと言ったのですが、自分の部屋からはいずって、大好きなまんじゅうを食べにきました。

 自分の食べたいものは食べるんだという、そういう素直な執着。人間のもっている本来の、ほんとうの執着というのはなくさないでいただきたいと思うのです。

 お釈迦さまの時代といまでは、その教えの解釈の仕方をすこし変えないといけないと思いますが、仏教の、お釈迦さまの最初の教えは三法印でございます。これをご紹介して私の話にかえさせていただきます。この後、国宝の舎利殿を参拝していただきます。本日はありがとうございました。    合掌

*ふりがなは円覚寺様のご指導に基づきました。