成願寺 今昔 あれこれ (四)   

      住職  小林貢人

 

 江戸時代の寺院は、前に申し上げましたような幕府行政の一端を担いながら、旅篭代わりも勤めたようです。お寺のご飯はお粥ですから、お湯を足せばすぐ一、二人前の食事が揃う。だから寄宿する人も、受け入れる人も気が楽だ。

 

要予約一室2名以上なんていう旅館の商業的悪習はここ3040年来のこと、古今東西をとわず旅人は突然参上突然宿泊食事は有り合わせ、が本来の姿と存じます。

 

 いつでしたか会津藩史研究の人が見え「甲州で病んだ役人が指定の成願寺に寄留、亡くなっている。記録を調べたい」とのこと。新選組もいっとき逗留したこの寺は甲州街道、青梅街道から江戸市中や越後奥羽への中継所に適していたのでしょう。尤も会津藩新選組とも全く記録に残されていません。明治政権の進出にあたり旧体制との関係を疑われる書類その全てを捨てたのでしょう。大東亜戦争に負けた時、参謀本部の嘱託だった父の指示で軍国的書類(?)を焼いた日々の経験から私は推定するのです。

 ここの檀家さんに柳沢という旧家がある。その家の過去帳は歴史の一証明、御盆のお経に伺って徳川将軍夫妻も並ぶ80近い御戒名に驚きながら回向致しましたが、その折れ本の角ごとに熱田大明神千手観音などと、神様仏様の名を交互に記してある。各地の寺院いまでも朝のお経で「護法の諸天護法の聖者、日本国内大小の神祇、当山の土地護伽藍神‥‥」とご祈祷してます。日本人にとり長い間神仏ともに神であり仏だったんです。ところが明治になって神仏が分離させられた。廃仏毀釈の騒動も起きる。

 

 江戸時代一部の神宮を除きお寺はお宮に対し支配関係、お宮はお寺の境外堂の一つと自他認めていたようです。ところで先刻もお話したように江戸初期の儒学者、後期の国学者を先頭に仏教嫌い、仏教危険視の大きな流れがある。明治の御一新になったら、これが爆発して、神さまと仏さまは分かれなくてはいかん。仏は出てゆけの風が全国に吹き荒れ、全寺院破壊全仏像破棄された地方も少なくない。奈良の興福寺などはほとんど全部接収され壊されて、奈良ホテルなどに化けてしまった。五重の塔だけは燃やされる寸前、市街類焼の危険ありとの声沸き起こり止めたのだそうです。いまで言う住民運動ですね。

 

 傷なく残った寺も多い。この時いじめられたお寺とそうでないお寺がある。旧体制派のこの寺は裏山を召し上げられ東京府知事公邸となる。まもなく民間に払い下げられたようですが大正まで知事山といわれてました。敵方の財産を分捕り、味方仲間で頒けたり売り払うのは昔からのやり方です。

 成願寺の神仏分離、南の十二社境外地では熊野神社と分れ、丘は寺、池まわりは宮の管理とした。丘は桜山と呼ばれ池は歌舞伎の演目にもある上下二段の滝も見事な水面、茶店料理屋など並び、新内流しも見受けられる風情、私の母は娘時代(大正半ば)目黒から花見にきたそうです。

 お宮に、お宮まわりに人が住みだして、土地を貸した。またちょっと池を埋めて貸地。いま池は跡形もなく十二社境外地はビル群になってしまった。因は明治政府の神仏分離、ちょっと残念です。

 

 成願寺の檀信徒は前の話に出た名前以外、星野黒田榎本田中など農家・商店・職方を業とする家が元々で、江戸初期に蓮池の鍋島藩一統とその縁者、明治になって新政府官公吏ほか地方出身の人々が加わった。下屋敷が近めに在ったのでしょうか加賀藩士の家系が目立ちます。

 ぼちぼち人は増えたが、街の景観はほとんど変わりなく、青梅街道沿いには粉屋種屋みそ屋炭屋と並んだようですが、成願寺の檀家はなぜか饅頭屋が多い。そのせいか今でも菓子製造元が多いこの地です。

 はじめにお話したように神田川とその支流は水豊富で染物・水引元結作りも盛ん、寺の門前、相生橋下などに水車小屋あり玄米を舂き粉を碾いたりしていた。水は澄み透ってて、うどん屋の若い衆が岡持を川に落したがうどんを掬い上げそのまま届けたくらい。もっとも食べ終わった笊に藻が付いててばれたとのことです。

 ここ神田川盆地の農村生活の情景ですが、明治31年生まれ戸田初太郎さんの回想記(寺報5号)を読みます。

 「我が家の農作業は父親、母親、長男の私のほか若い男が2人ほど手伝って米、黍、野菜をつくっていました。主な収入源は大麦、沢庵のほか、ナス、キュウリ、トウナスなどの夏野菜くらいで、米、小麦、その他の雑穀は自家用が精一杯というところでした。

 売り物は、夜中の12時ごろに二台の荷車に積んで、神田市場まで持って行きました。朝の市に出すためです。一台に二人ついて、一人は引っ張り、他の一人は後ろから押して行くのですが、押し役は途中で引き返しました。

 陽が昇れば田畑に出て働き、陽が沈めばその日はお終いという畑仕事のほか、石油ランプの下での夜なべ仕事に、沢庵を作った後の残りの干し大根で『さきぼし』を作りました。先を残して箒状に鉛筆の太さぐらいに包丁で割き、これをさらに23日間天日に干して乾燥させるのです。これは近在の漬物屋が福神漬用に買いに来ました。僅かながら一、二月にかけての現金収入となったのだと思います」。

 

 子供の遊びも素朴で薪の先を尖らし、地面に突き刺して倒しあったそうです。三寸釘を奪いあった昭和世代の釘さしの元祖かな。でも豪快ですね。

 中野坂上にお住みだった鈴木尚博士は「大正初めの青梅街道に1516人乗りの円太郎バス、同七年路面電車開設されたが荷役はもっぱら馬車、そこはかとなく馬糞の臭いが漂っていた」と誌されてます。

 主要産業の沢庵造り。町場と戸山代々木の軍隊が納入先−あのころ脚気になる兵隊が多かったのは、麦を食べないで塩辛いものと白米ばかり摂ってたからで、その責任は軍医総監森鴎外にありとの説本当でしょうか。

 暖簾模様に何日か干した大根を糠塩に挾んで四斗樽に漬ける。重し石を乗っけて、その上に板をわたす。また樽また樽と三段に積む。出入りの人集まるこの季節、お祭り騒ぎだったと聞いております。地の大根だけでなく練馬所沢からも取り寄せ、その流通で縁談のまとまった家もある。

 大正12年関東大震災で、その樽が全部転がってしまった。惨めなものだったそうです。もう続ける元気は失せた。おりしも震災地から移住してきた人を交え、住宅増が要求された。農業は仕舞われ、家作を持ったり勤めに出るようになった。たくあん石だけが残った。時すぎて昭和平成とみんな家を建てかえる。石が邪魔。お寺で引き取ってくれというので、何度も運びました。あの丸い形はリヤカーにやっと三つしか乗らない。この境内を散歩してください。植え込み周りにその石がごろごろしています。

 

 大震災後、後藤新平の号令で環六道路が企画され、中野坂上にハイカラなロータリー交差点が現れたり街がだんだんできる。昭和11年向台小学校創設、神田川改修……、曲がりくねっていた川を真っ直ぐにするなど、増える住民に対応していった。この地域の景観がぐっと変わっていったことでしょう。

 けれども今の地下鉄車庫の辺りはまだ田圃雑木林多く、昭和7年生れの幕内さんによると、空襲前後までキジがけっこう捕れたということです。

 

 その昭和20年の空襲。みなさんもご存じ、たいへんなアメリカ空軍の襲撃だった。この裏山は結構きれいな山に見えるけれども、あの中はがらんどう、今だに残っている防空壕。大きなものです。中に本堂もあれば、風呂、雪隠も備えています。525日夜空襲に近所の人何人も駆け込んだが、南からの火の手を恐れて北へ転進したところ、逆から火が襲い犠牲になったという悲しいやりきれない話もある。この境内では焼かれて骨だけのしゃがみこんだご遺体が三柱あったそうです。当時の回想記を載せた成願寺報ここにありますので是非御一瞥ください。(15号、16号、64号)

 防空壕、いい赤土ですが掘りきりで中が剥がれだし、上の木は大きく山崩れが心配、七八年前に鉄骨を入れた。そうでないと落っこちてしまう。

 とにかくぺろんぺろんに焼かれた。

 

 御本尊様、過去帳のほか防空壕の中で生き残った掛軸がここにあります。いちばん大事な掛軸がこれ「出山の釈迦」といって、お釈迦さまがお悟りに達しすなわち成道を得て山から出てこられたお姿です。この日128日。私の子供時代は興亜記念日とか大東亜記念日と名付け戦勝のお祈りしましたが今は成道会、幼稚園の学芸会もその日に行ないます。これを描いた人は雪舟、ひじょうにいい掛軸。この雪舟の兄貴分が小栗宗湛、この猫と小鳥の絵。次はもうちょっと古くて、先ほどお話しした成願寺のご開山の肖像画、頂相といいます。ご自分で賛をしておられる。

 床の間におまつりしてるのが観音さま。防空壕の中で湿けり、ぼろぼろの一塊になっていた。ひじょうに腕のよい表装師がおられ、直してもらった。そして一文字をはがしたら、「慶長2年、これを修復す」と書いてある。その時にすでに直した。考えると、慶長二(1597七)年の二三百年前に描かれた可能性がある。絵柄は朝鮮風筆法で室町時代初頭作かと云われてますから勘定があう。

 その表装の林さんいわく「私は約四百年目にこれを直す。だから、あと二百年責任があると思って一生懸命やります。二百年後の直しの時、私の名前を見てくれるでしょう」。

 

 今ここにいっぱい木があるようですけれども、みな戦後植えたものです。苗を植えたから、大きいのでも樹齢70才ぐらいです。

 数年まえ庭先に東屋をつくりました。曲がりくねった柱は椎の木。焼け跡に植え立派に育ったが道路の拡張で泣く泣く切り倒した。戦後復興のしるし、捨てるのがもったいないから、東屋に工夫し、曰く因縁を梁に書かしてもらいました。  つづく