成願寺 今昔 あれこれ
(一) 住職 小林貢人
皆さん 本日はあいにくの雨の中、地域見学でお寄り下さり御苦労様です。まずは成願寺あれこれをざっとなぞり御挨拶とします。そのあと御案内申し上げますので本尊様にお詣りして下さい。ここの本尊様は釈迦牟尼を彫り現した有難い木像で、衣の袖が蓮台の外へあふれ、垂れ下がっている鎌倉時代の代表的美術品でもあります。またアメリカ軍の空襲事跡を見ていただき、ご感想を寄せて下されば幸いです。
この寺付近を空から見て下さい。神田川小盆地ですね。昭和初頭まで中野本郷の低地を蛇行した川は、十二社池(西新宿にあった池)の水を併せ、青梅街道をくぐる淀橋付近800米で瀞、淀になっていました。だから淀橋。青梅街道が広くなり過ぎて橋はみえず、地名は西新宿となり、今やカメラ屋のみヨドバシが残ってる。 江戸の頃は火薬工場もあり、水車小屋も産業として成り立っていたというように、かっての川は水量豊富で、泳ぎ自慢の私の父はかねがね「神田川の水遊びで育った。俺の体は水になじんでいる」と口にしていたくらい。明治30年生れです。 回りの台地には弥生時代遺跡あり、ある家には先祖が鎌倉幕府に年貢を納めた話があります。水に恵まれて古くより人は住み、そして真言宗がひろく信仰されてました。宝仙寺、幡ヶ谷不動などこのあたり真言宗だけだった。そこへ初めて進出した禅寺が成願寺です。
源義経の家臣佐藤兄弟の末裔で、紀州藤代神社の縁を持つ鈴木九郎がここへ住みついた。湿地を耕し、雑木林を拓いて馬を育てたが、さっぱりうだつが上がらない。応永年間、世阿弥が『花伝書』書いた頃です。 そのある日、馬を売りにゆく道すがら浅草観音に寄り、「馬が高くうれますように! 代金に大観通宝がまざっていたら、帰りに観音様に納めます」と祈った。その時代、人々は各地方でのみ流通する私銭を主に使い、輸入された正式通貨大観通宝はごく珍しい有難いお金でした。その希少なお金で代金全部、九郎は約束を悔やみ、しかし諦めて残らず賽銭箱に納める。 女房への言い訳考えながら帰り着くと、意外や満面の笑顔で迎えてくれた。九郎の姿が光輝いて見えたそうです。 観音様の啓示をえた九郎夫妻は勉励一途、ついに中野長者と呼ばれる成功者になり、先祖の地より熊野十二社の神様を勧請する。西新宿熊野神社の始まりです。ところで人間万事塞翁が馬、18になる一人娘が十二社の池に落ち先立ってしまった。
昭和62年、人骨学の権威鈴木尚教授にお願いした遺骨調査では、小笹は非常に病弱だった筈との事、それを悲しんで自ら入水したのかも知れません。
明暦四年の成願寺縁起書によると、結婚式前夜に急逝した娘小笹の冥福を願い、真言宗名僧をお招きし、七昼夜密法秘法の会を開いたがさっぱり験がない。折も折、小田原最乗寺の舂屋宗能禅師の高名を耳にした九郎はさっそく勧請、禅師快く下向して下さった。池の端でお連れの僧たち観音経唱える中、禅師夜を徹して坐禅し、暁天に一喝、小笹は無事成仏した。 この話、真言宗地帯へ乗り込んだ新仏教宣言といえましょう。 さっそく、九郎は最乗寺に拝登、仏殿を寄付、正蓮の名を授かり十二社池のほとりにお堂を設け、娘小笹 ―真窓正観禅女を供養した。成願寺の始まりです。時に永享10年、足利幕府初期、西暦なら1438年。 それが80年たった八代将軍吉宗の時、享保縁起書では、だいぶ尾ひれがついて、宝を埋め隠した帰りに、その手伝いを淀橋から落し、口をきけないように始末し、また娘が蛇になったという話になってしまった。これはまことにうまくない。このような長者伝説は北陸東北など各地にあります。朝日長者伝説といって、いわく因縁をもってその土地が開かれたという縁起話です。弘法大師が杖を立てたら温泉が涌きだした話と同じです。 九郎がこのような経歴、経験の持ち主なのか、家系図買ったのか、他人のよい経験話、たとえ話が付加されたのか、それはわからない。 ともかく農村経済の担い手が変わってきたこの時代、武蔵野・相模では宗能禅師に代表される曹洞宗布教者によって熊野権現、最乗寺道了尊 ―当時は神仏一緒です― の功徳が説かれ、受け入れられはじめた。そして九郎長者がこの地第一番の帰依者であり道了講の有力檀那になったのだ、と私は考えてます。
さて、お釈迦さんがインドで仏教をはじめたというけれども、もっと前に6代にわたる修行の先達家がいる。ちょうど天皇家筆頭の神武天皇にも先代、先々代の話があります。古事記・風土記の世界。両方ともずっと昔の話なので、実在か否かわからない。 ある説によると神秘的霊性に近付こうとする宗教修行、およびその結果を現わす宗教儀式は、昔西アジアのマニ教で一度、統合完成し、東西四方に伝わったそうです。そういえばカトリック修道院と仏教僧堂の生活はいろいろな点で似ていますし、ニコライ堂でロシア正教の法要に参列、成願寺の方式によく似てるのに感慨を覚えたことがあります。 話がそれました。 お釈迦さんは、これだけの宗教伝統の中に生きており、我こそ真実のやすらぎの発見者、伝法者である。と自覚して説法を始めた。ときに35歳、2500年前のことです。 その識見と人柄にひかれて、弟子雲のごとく集まり80才で息引き取られるときには、象虎から蝶ミミズに至る百獣、一木一草までが枕元で悲しんだそうです。猫は欠席したらしい。 お釈迦さんのお心、実践は弟子孫弟子曾孫弟子とひろく受け継がれてゆきます。お言葉はお経として編集され、修行の場、寺院があちこちに設けられ、御逝去あと150年ほどには大宗教組織と成った。西ではギリシャ文明最盛期からアレキサンダー大王の時代。その頃です。なお大王の縁で、後世ガンダーラ仏像なる東西融合の有難い彫刻がたくさん刻まれた。 そして仏教使徒・僧侶は東はビルマからインドネシア、南はセイロン島、北はヒマラヤ越えて中央アジアへ布教。中国本土はキリスト生まれたすこし後、日本へはさらに500年ほど後に伝播してきた。 その頃、達磨さんがインドから揚子江下流の地に渡ってくる。禅の心のみが真実だという信念の人、禅仏教の鼻祖です。そこから弟子代々が正法を受け継いで、長翁如浄さんというとてつもなく偉い坊さんに至る。元の大軍が対馬筑紫に押し寄せてきたが神風吹いて日本が助かった、あのちょっと前のころです。
道元、頭脳明晰向上心いちずの青年僧が京都に生まれ育った。勉強先の比叡山でも建仁寺でも、先輩いわく「君にはもう教えることがない」。そこで師とも兄とも慕う明全に蹤いて宋、今の中国に行った。その頃、貿易する人、学問する人はみんな宋語ができた。宋・元の坊さんが来て、宋語で講義する。道元さんも宋語がぺらぺらだったはずです。 ひどい嵐に遭いましたが、船はなんとか寧波についた。そのころ日本は椎茸の干したのを中国に輸出していた。日本からの輸出物は金、銅とともに椎茸が多かったらしい。それとゴマを輸出していたそうです。ナマコ、フカヒレもあったでしょうか。 さて青年道元なかなか上陸しない。航海中の病気回復や、役所、寺院の手続もあったでしょう。なにより大知識(名僧)、優れた修行地はいずこかと、情報を集めていたといわれます。どうしようかななんて考えているときに、一人の坊さんが買い物をしている。「椎茸くれ」と。道元さん喜んで、「ちょっと伺います。私はこれからどっかへ修行に行こうと思うけれども、どういうお寺がいいですか」。そうだなということで、あそこへ行ってみろ、こっちへ行ってみろといろいろと雑談したのでしょう。そのなかに天童山の話、如浄さんの話も出たでしょう。話をしてるうち道元さん、この人はたいへんな大知識、偉い坊さんとわかった。そして「あなたみたいな偉い人が、なんで買い物などをやっているんですか。若い人たくさんいるでしょう」と道元さんが思わず聞いた。老僧からからと笑い「あんたは人間ができてない」と言って帰ったという。 いっときして道元様はわかった。ご飯を食べることは日々の行事の基本、ちゃんとした物をきちんと食べなければ修行できない。寺で待っている修行僧のために、心こめて食材を仕入れることは一大事。だからあの大和尚が来たんだ。道元さんは目の醒める思いがし、向学心いっそう燃え立った。そろそろ日本に帰るかなと思い始めた時、如浄禅師の名を思い出し、さっそく訪れました。 英雄は英雄を知るといいますが、如浄さんに会って道元さん始めて師を得た。道元さんに会って如浄さん始めて正法の後継者を得た。 如浄様の禅語は広く親しまれ、玄関や床の間などでしばしばご覧になれる。”雪裡梅花只一枝“などです。 長翁如浄禅師の一進一退一言一句までの行事を身に染み込ませた道元さまは満を持して帰国、京都福井に僧堂を開き正法禅の著述、教育に大活動する。永平寺の建立もその一つですが、お書きになった正法の書は信じられないくらい多彩多量のものです。
何年か前、私は永平寺裏山へ踏入りました。歩行距離計を転がし、時間を記録しながら永平寺建立時の道元様の足跡を辿る調査について行ったのです。笹、雑木、葛に覆われた崖と渓谷にさ迷い、深秋の陽は早く落ち一時は絶望しました。どたんば、先達の熊谷さんとおっしゃる和尚さんが「だめかも知れない。でも朝の御代香を勤めなくてはいけない。絶対に出る」とものすごい気力。なんとか道を切り開き、ほうほうの態で夜半帰着。満月に恵まれなかったらアウトでしたね。……御代香とは御本山で禅師様代行を勤めることです。 平成の世でこの酷しさ。鎌倉時代はもっと寒く木立深く、開拓建築の道具は単純で、道元様一統の苦労はそりゃ一通りでなかったでしょう。 以下次号 |