『成願寺 今昔 あれこれ』 (二) 
  

          住 職   小林 貢人

 

 道元様より64年後輩の四代目が瑩山紹瑾。道元様に勝ることなくとも劣ることないこの傑物大和尚は、日々の行事綿密他に絶する人でしたが、なにより人材の養成と組織の構成力に勝れていた。西の方でもキリストの教えを世界に広げた基礎はパウロの構成力ではないですか。道元キリストが宗祖、瑩山パウロが教団元祖と私は対比しております。少し乱暴かな。

 瑩山禅師と五人の弟子さらにその弟子たち僧が全国に曹洞禅をなじませた。瑩山禅師の活動拠点・能登總持寺は後醍醐天皇より高野山と共に二大勅願所に任ぜられる。ついでながら永平寺總持寺、曹洞宗二大本山というのは徳川初期の御法度以後です。それまでは大和尚が各地に修行所 ―寺をつくり、一派をなした。曹洞宗との名称もなかったはずです。

 一般人への布教も熱心なのがこの總持寺の系統で、末寺、信者多く、その「本山詣り」盛んなこと明治時代までは全国五指に勘案される数だった。その証拠に公式地名の門前町はここ石川県鳳至郡門前町のみ。

 

 大本山総持寺—小田原の最乗寺—市川總寧寺—秦野香雲寺—成願寺がこの寺の血筋なんです。市川の寺は江戸幕府の新法制で挟みこみ、と私は判じてます。

 瑩山さんの孫弟子通幻和尚は三田(兵庫県)に永澤寺を開き、その弟子了庵和尚は故郷に最乗寺を拓く。總持寺は海運の要輪島の奥、永澤寺は山陰山陽への要 −三田の奥、最乗寺は関東への入口小田原の奥、それぞれ人、文物交流の要衝を望んで居を構えた。

 みな「奥」なんです、「要衝の奥座敷」。總持寺は諸嶽寺、真言宗の寺より改宗、永澤寺は修験道の寺跡、最乗寺は了庵様に帰依した修験者道了薩■が設営。

 そのころ心の悩み、体の障害は占いと御祈祷でなおし、髪の毛洗うにもその儀式があった。安倍晴明一統みたいに御殿の中、街中で人々に接する派もありましたが、険しい山道で街を離れ、厳粛な作法の御祈祷に魅了される人々は多かった。

 道元様瑩山様とも観音さまの霊的経験、心証深い方だったことで、後世の弟子にいたるまで御祈祷を大事にした。そして要衝の地に近い人の集まる祈祷所は新仏教活動に絶好の立地だったでしょう。はじめ修験道真言宗天台宗、中世から曹洞宗の寺が多い理由の一つと私は思います。皆さん旅行で、この例ご覧になることがある筈です。たとえば会津の示現寺は奈良時代の開創、道元禅師よりはるか前ですね。若松城下町の少し奥です。伊豆修禅寺、袋井可睡斎しかり。

 最乗寺から坊さんをほうぼうに派遣した。そのひとりが舂屋宗能、のち最乗寺の五代目となり永澤寺、龍泉寺(武生にある大本山より古い寺・一頁参照)の住職も歴任します。

 舂屋宗能が師匠から「自分のほんとの姿をつかめるか」と聞かれた。よくわからん。ある春の夕方、歩いていたときに、梅が咲いていた。そして米をつく音がした。その時、突如として悟った。「去年の梅、今年の柳、顔色馨香旧に依る」という詩を書いて、師匠に渡した。去年の梅、ことしの柳はすべて昔どおりに咲いているんだ。「本源の姿ここにあり」という言葉があります。いにしえから何も変わらないんだ。自分が変わったと思っても、宇宙乾坤ちっとも変わってないんだという悟りを開いて旅にでた。巡錫といいます。里の人に説教し寺を設けた。

 ちなみに、「去年の梅、今年の柳、顔色馨香旧による」は本堂正面の聨でご覧ください。

 

 調布市につつじヶ丘というところがあります。昔の入間。禅師はその入間の吉田家に泊まった。お説教したりして親しくなった。ですから、成願寺の二番目の檀家は吉田さん。そして羽根木に稲山さん、初台の番場さんと一晩ずつ信者をつくってここ神田川を囲んだ盆地に到達した。川本田中秋元などいう古い家へも宗能禅師により曹洞宗の教えが染みこんでいった。

もっとも十二社池の端で御祈祷し娘を成仏させた僧は、縁起書に「師僧」とありますから、舂屋様の代理だったかもしれません。最初の信者達に接したのが弟子孫弟子かもしれません。舂屋の名が偉大なのでみな舂屋様の行事と伝わる。名判決は大岡越前に帰す、でしょう。

 

 九郎が舂屋宗能禅師に帰依し庵を建て、娘の戒名真窓正観禅女から正観寺と名付けた。本尊様は鎌倉時代の彫り、湯河原走水権現に祀られていたとのこと、最乗寺より賜ったのでしょうか。

 舂屋様が成願寺の鼻祖で、140年の後、川庵宗鼎和尚を初代に開山となる。最乗寺、香雲寺より正式に認められたのですか。禅寺では自分から初代を名乗りませんから、その弐世三世が基盤を築いたと存じます。時に文明8年(1476)一休禅師の同世代。

 ずっと時代くだり寛永五年(1628)十二社より現在地 −旧九郎邸に移転した。願い成ったとて成願寺に改称したのです。

 

 話をもどし、江戸時代になり寺請制度というのができて、寺は各地の戸籍係になっていた。なぜかというと、キリシタンが出ないようにということですが、キリシタンと同時に、徳川幕府は仏教の一部が嫌いだった。

 味方するのもいたけれども、そうでないのもいっぱいいる。というのは、比叡山の僧兵、一向一揆で懲りている。宗教的結合は徳川を頂点にする政治体制に危険だと判じた。それは島原の乱で決定的大義となった。家康の顧問林羅山なぞ坊さん毛嫌いし、寺を建てるたび森が消えてゆくと国賊扱いしている。現世の急進的グリーンピースみたい。

 結局永い歴史ある、世に染み込んだ仏教教団を統制し、組織を整えさせ、幕藩体制を賛助させた方がよいと寺請制度を考え、全部書類を出させた。川本さんの分家の誰それはキリシタンではないから、村に来た時ご祝儀を渡してもいいというような書式が成願寺に残ってます。

 檀家制度について、私はほんとのところわからない。ここの檀家では先ほどお話ししたように、調布のほうにあった。それから荻窪にもあります。杉並には高円寺観泉寺など、お寺がいくつか生まれたけど、その地域の家すべてそっちの檀家とならない。一部が成願寺の檀家です。それがどういう方式かはわからない。たとえばお嫁に行っても、その家でお嫁さんだけが実家の檀家とか、そういういろんな形があって、いちがいに言えない。 といっても、寺と檀家関係の基本はこの近所でいうと北、丘の上は宝仙寺のサービスエリア、南に清水橋がありますが、あそこに川があった。それを渡ると幡ヶ谷不動莊厳寺のサービスエリアだった。ちょうどいまの新聞販売店みたいなもので、地域が厳密だった。成願寺は本郷氷川神社下から淀橋までの神田川小盆地がサービスエリアということになっていたらしい。

 舂屋禅師一統の力で曹洞宗で成願寺一軒ここに頑張った。そこへぼちぼちと檀家ができた。ところで、いまの佼成病院のはす向かいのところに官舎があるが、あそこあたりに鍋島の寮があった。大名はおおく自分の国元から菩提寺を引っ張ってきたけれども、この蓮池の鍋島さんは子供の夭折に当たり手近にある寺に埋めようとなり、成願寺は中野で唯一の大名寺ということになった。

 いま鍋島さんの古記録がある。何分にも相手が大名で刀をもっていておっかないので、いちいち法事の記録をとってある。法事進行、回向料、お盛物、また後席の献立、おわん、どんぶり、小鉢、壺、硯蓋、飯、その食材にいたるまで細かく書いてある。気を使っていたんですね。そして最後に、明治の御一新、廃藩置県でこのたび江戸屋敷お引き払いにつきさようならしますと、永代供養金、銀十五枚、金十両三分永代供養料を納めた。時に慶應4313日。

 でも先代義堯和尚の少年時代、明治末期まで馬車に乗ってお詣りに来られたそうです。

 鍋島の墓はいま無縁さま、でも立派な五輪塔が並び、中野区から文化財に指定されています。

︱以下次号︱