追悼・小林義堯大和尚を偲ぶ 導師 義堯大和尚と私の出会いは、私がまだ四つか五つ、静岡県伊東、私の生まれ育ちました恵鏡院でのことでございます。 私は、現成願寺方丈様のお姉様と同い年だそうですが、義堯老師は私が生まれました年に伊東弘誓寺の院代に入られました。父が義堯老師と、もともと友人関係にありまして、よく遊びにお見えになった。義堯老師は明治30年生まれ、父より七つ八つ年下でしたが、馬があったのでしょう。しょっちゅうお見えになっては、話しをされて帰られた。 私は兄と弟の間にはさまれた3人兄弟でしたが、なぜか私を特にかわいがってくださって、義堯老師がお越しになると、そのお膝の上は私の特等席。当時は「陶山のおじちゃん」とお呼びしていました。後から知ったことですが、「陶山」の姓は義堯老師のお父様の名字だそうですね。義堯老師が幼少の頃から外地へ赴任。留守がちだったそうですが、その後、戦乱のさなか行方知れずになられたお父様の名字を名乗っておいででした。「小林」の姓は成願寺27世小林孝順大和尚の娘、タケ様がお母様であられまして、お父様行方知れずの際、義堯老師を慈しみ育てた孝順大和尚のご恩に報い、大正10年東洋大学をご卒業を機に「小林」の姓に移られたと伺っております。 ある日、いつものようになんの前触れもなくお越しになった義堯老師は、膝の上に坐る私に木製のトラックのおもちゃを下さった。珍しいおもちゃでとても嬉しく印象に残っているのですが、「陶山のおじちゃん」がお帰りになると、父から「これは兄弟3人で遊ぶようにくださったのだから、仲良く遊ばないとだめだよ」と念を押されるわけです。そんなことを言われましても、大好きなおじちゃんが持ってきて自分に渡してくれたんだから、「僕のだ」と随分納得がいかなかった思い出がございます。 義堯老師は昭和5年まで伊東においででした。当時の伊東は冬になりますとイルカの漁をするんです。川奈湾という小さな湾がございまして、イルカを追い込んで湾の入り口をふさぐ。そこにふんどし姿の若い衆が飛び込んで、命懸けの漁です。私の育った恵鏡院が当時その湾の崖の上にありましたから、イルカの血で湾が染まる光景が瞼に焼き付いております。この集落あげての漁で捕れたイルカは、トラックで関西方面に出荷するんです。そうして町が潤う、年が越せるんですね。伊東は古くから魚が豊富な漁師町です。漁師は船元からその日の分配を受けるわけですが、分け前は平等。ただしその一人前にお寺の分が入っています。伊東はお寺をとても大切にする土地柄で、舟を作っても家を建ててもまず和尚がお経。その後、神職さんが来て祝詞をあげる。 夏場に棚経に伺います。下駄がちょっと欠けたりしていますと、お経を読んでる最中に下駄屋さんに行って替えておいてくれる。暮れになると檀家さんがお餅をついて持ってきて、本堂がいっぱいになるくらいお供えしてくださる。そのお餅を保存しておきまして、冬場に浜風がふいて火事なんかが出ますと、それが炊き出しの食事になった。そういう、人々とお寺が密接なところでした。そんな伊東で義堯老師と一緒に海を眺めた記憶が懐かしくございます。 その後、昭和5年に義堯老師は伊東を離れ、調布の金龍寺住職になられたわけです。ある日父から、「陶山のおじちゃんのお寺に行くよ。おまえだけ連れて来てと言われたよ」と言われ、一緒に参りました。中学一年のころだと記憶しておりますので、ご住職になられて数年たった頃です。義堯老師は、大きくなってと喜ばれ、私も久しぶりの再会で少し照れながらも親せきのおじさんに会ったような嬉しさがございました。 その日は暑い盛りで、冷たくておいしいからと言って薄くした梅酒を出してくださった。そして父との話しに花が咲いているわけですが、実はその梅酒、砂糖が入っていませんで、子どもの味覚では飲めたもんじゃない。そうしましたら、「出されたものは、だまって喜んで飲むもんだ」と怒るんですね。「こんなおいしいものを」と一口ご自身が口にされた瞬間。「あ、ごめんな」と言って、目のぐりぐりした義堯老師が目を細くして「坊やごめんね、これは砂糖が入っていないな。子どもには飲めないね」と言って身を小さくして謝ってくださった。子どもの私に懸命に謝ってくださるそのお姿に義堯老師の懐の深さを感じ、その時のことはとても印象深い思い出になっております。 私は次男ですから、お寺をやるつもりはありませんでした。父はそのころ福島県白河閑川寺の住職をしておりまして、私が現在いる福寿院は隠居寺でした。ですが、その時「この子が福寿院をやるかもしれません」と話していまして、びっくりした覚えがございます。 父が昭和十五年に亡くなりましたが、それまでは、時折うちにお出でになった。その頃、私も戦争に行きまして、なんとか戻って参りまして、昭和24年に福寿院の住職になりました。 それが、いつでしたか、戦争を挟んでしばらくお目にかかりませんでしたが、たまたま成願寺様の末寺のお寺で「陶山のおじちゃんだ!」と再会。昔と変わらずにっこりされて「たまには成願寺においでよ」と気さくに声を掛けていただいたのが昨日のことのようです。それから盂蘭盆会の時などには、お塔婆を書かせていただくようになりました。ところがそのお塔婆がいまと違いまして、数も多いけど、三尺、四尺、五尺、六尺、七尺もあったかな。檀家さんの希望などで大きさが違うんですね。一本間違えますと「ちゃんと気を入れて書けよ」なんて言われて。7、8年は通わせていただいたと思います。 そんなある時「寺の和尚はお経だけじゃいけない。社会奉仕をしなきゃだめだよ」と言われました。「人間の心の苦しみ、家庭での辛いことの相談にのるんだ」とおっしゃった。そのお言葉を聞きまして、私は感激したんですよ。確かにそうだ、在家の方々の悩みをお聞きしよう。心の助け合いをしよう。それから民生委員を35年努めました。老人ホーム、施設、関東一円からさらには海外まで訪ねて歩きました。若かった時分に言われたお言葉ですが、非常にその一言が私のその後の人生に影響を与えてくださった。 これはやって良かった。みなさんの悩み・苦しみは本当にいろんなことがありました。でもお寺の中にだけいたら知り得なかったことです。これが私にとっての仏の道になりました。義堯老師のお教えがあって、それを守って、いまはいくらかご恩返しができたかなと思っております。 ある時、トラックで急にお見えになりました。まあおみえになる時はだいたいいつも急でして、家人が取り次ぐ最中にはもう帰っちゃう。「他人じゃないんだから取り次ぎなんかいらないんだ」ということなんですが、私どもの山門の裏手に大きな土管があったんです。それを「買いにきた」とおっしゃった。「買うなんて言わないで持ってってください」。福寿院はもともと染め物屋のあとでして、瓶の大きいのもたくさんあった。当時なににお使いになったか存じませんが、いまも金魚を飼っておいでだとお聞きして、思い出した次第でございます。 成願寺様の盂蘭盆会は、いまは7月の11日、当時は2日でした。暑い盛りで、でも一年でいちばん檀家さんの集まる日です。それなのにステテコと半袖のシャツで平気で本堂に顔を出しちゃう。お経の時は違いますよ。でも「やあやあ」と言いながら、ぱっと行っちゃうんですね。いまそういう和尚はいませんよ。 体が大きくて声も大きくて、目はぎょろっとして怖いと思う方も多かったようですが、怖いということとはぜんぜん違う。坐禅をして、悟りきったようなお坊さんではなく、豪放磊落、実行力に富んだ尊敬に値する方でした。戦後の再会後は成願寺の方丈様とお呼びするようになりましたけど、私の心の中ではいつまでも、「陶山のおじちゃん」のままであります。 合 掌 |