平成18年 盂蘭盆会説教

 『先祖から伝わるもの、伝えるもの』

   新潟県 龍谷寺住職  駒形 元宗


ただいまご紹介をいただきました、新潟県は八海山の麓にございます龍谷寺から参りました駒形と申します。住所でいいますと南魚沼市。群馬県と隣り合っておりまして、東京からは一番近い、日本海側からは一番山深いところにあたります。私どもの地域で有名なのが魚沼のコシヒカリ。全国で流通しているコシヒカリは数多くございますが、私どもの土地の米が一番と自負しております。あとは、八色スイカという、スイカがおいしいところとして知られています。

 でも、何よりも有名なのが雪です。今年はずいぶん降りまして、4メートルほど積りました。それだけの雪が積りますと建物がつぶれますので、屋根から雪を下ろす。そうすると下ろしたところの積雪はもっと増して、高さ8メートルほどの本堂の軒先まで、はしごを使わなくても歩くことができます。東京の方には想像もつかないことと思います。

 私ども龍谷寺の山号は八海山と申しますが、お寺よりもお酒の八海山のほうが有名なようです。長いあいだ売れない時代が続いたのですが、地酒のブームにのって、この20年ほどで県で三本の指に入るまでになりました。そんな、雪と米と酒とスイカの里から本日は参りましたが、私どもの地域では、「巻」というのが生きています。これは、苗字を同じくする人、要するに先祖を同じくする人の集まり。この「巻」が力をもっておりまして、葬式・法事などの先祖供養のことや、鎮守の祭礼を濃密な意識をもって執り行なっています。

 それでも、23日前の葬儀の際、お年寄りが「どうも近ごろは葬式がやりにくくなった」と言うんです。25年ほど前に田舎にも葬儀社ができました。それまでは本家のおじいさんとか分家のおじさんなんかが集まってやっていたわけですが、葬儀社が葬式を取り仕切るようになった。そうしているうちに、「巻」の力が弱くなったというんです。

 地域の伝統を伝えるということは、葬式とか祭礼をいろんな世代が共同で作業をして行なう、これが肝要なんですね。年寄りがすることを若い世代の人が見聞きすることで、つながっていくわけです。

 伝統や文化は、人間が日本列島に住まうようになってずうっと、長い時間をかけてつくりあげてきたものです。社会を代々つないできた先祖の考え方、生活様式、行動様式が、今に伝わっているわけです。

 「先祖」という字を思い出してみますと、先に住み重なる、ととることができます。亡くなるとみな一家のお墓に納められる。そして古い順に積み重なっていきます。そういう先祖の住み重なりが、要するにいのちのつながりということですね。

 だれでも親が2人あって、その親もまた2人ずつ親がある。おじいさん、おばあさんの親となれば、8人。そんなふうに数えていきますと、すぐに莫大な人数になります。30代さかのぼると、86億人。もうひとつ倍というと、170億人ほどになりますから、計算機では桁が足りない人数になるわけです。

 人間は、姿、顔形、民族などで異なりますけれども、その遺伝子は、99.9%までが同じだそうです。最後の0.1%が違う。その0.1%の遺伝子のなかに、少しずつ時間とともに変化した点がある。それを調べていきますと、われわれの先祖は、だいたい15万年ほど前にアフリカにいた、数百人の人間だろうということまでわかるんだそうです。

 その15万年前の人たちは、5万年から7万年ぐらい前に、アフリカから紅海を渡ってアラビア半島に行った。その数、数十人だろうといわれています。これがアフリカ以外に住んだ最初の人間です。

 そして、45.000年ほど前にオーストラリア、40.000年ほど前にヨーロッパ、シベリアの南の方へ、20.000年ほど前にベーリング海峡を渡ってアメリカへいたり、5.000年前頃までに南アメリカの最南端まで行った。日本へは、18.000年ほど前にいたったのではないかといわれています。そしてその日本にいたった最初の人間から営々と続く社会が、今日の日本であるわけです。

 人間の先祖といいましても、空から降ってきたわけではありません。何かほかの生物から進化したわけです。みなさんご存じと思いますが、600万年ほど前に、チンパンジーの先祖から分かれたそうです。でもそのチンパンジーも何かほかの生物から進化しました。そうやってたどっていきますと、30数億年前に地球上に生命が誕生したそのときまで、どんな生物もつながっていくわけです。

 そう考えますと、その辺に生えている木や草も、鳥やトンボや犬や猫も、地球上のあらゆる生物はみな、自分と同じ先祖。それなのに、人間ばかりがわがもの顔で歩いているというのは、どうも本当ではない気がしてまいります。

先祖の恩に気付き、自分を顧みる

 こうしたなかで、とくに日本人が大事にしてきたひとつに、「お陰さま」ということがあります。みなさんもよく使われますね。「お久しぶり、お陰さまで元気にしておりました」。

 では、何のお陰でしょう。少なくとも、何年かぶりに会った人のお陰で元気にしているわけではないですね。だけれども、たまたまどこかで行き会う、これは何かの導きがあってのことかもしれません。自分自身を取り巻く人間関係、またずっと辿っていけば同じ祖先に行き当たる他の動植物などの自然、大切なこの二つの関わりは、つまりは先祖がつくってきた社会、そのお陰さまなのです。

 親が子どもを思う気持ちは、自分が子どもを持ってみればよくわかります。子をもって初めて、自分の親も自分をそう思ってくれた、そう心底気付くことができる。そういう親と子の気持ちのつながりがなければ今日のわたしはいません。こうした意識が「お陰さまで」ということを生んだ。

 そしてこれは、鎮守さまを祀る、お寺へお詣りをして先祖のことを思うのと、同じ気持ちなんですね。ですから、法事を行なうということは、先祖を通じて自分を顧みる。そしてまたお寺さんにお経をあげていただいて、お釈迦さまの教えをわが身につける。それによって自分自身を反省し、子や孫を導いていくということが、法事の本来の意味であると思うわけです。

人と自分のつながりを考える

 私はお寺の生まれではありませんで、大学を卒業してから龍谷寺で得度をして修行をはじめました。ある朝のおつとめの時に師僧から、「朝のお経でいちばん大事なことは、外を向いてお参りすることだ」と教わりました。

 龍谷寺はわりに広いお寺なものですから、朝のお経も1時間ぐらいかかるんです。本堂からはじめて諸堂を巡り、最後にまた本堂へ戻ると外を向いて4回お拝をする。この最後に外を向いて行なうお拝、これが四恩に報いるということで、1つ目は仏法僧、つまり仏教の大事な三宝の恩。2つ目は国王の恩。今は国王はいませんから昔の表現でありますけれども、社会の安寧を保ってくれる者に対する恩です。3つ目は父母の恩。最後が衆生の恩。

 この4つの恩に報いることが、人間が生きていく上での大きなつとめである。これを率先して行なうのが、お寺のお坊さんでなければならないという師僧の教えでした。

 仏教ですから、仏法僧に対する恩というのはもちろんですね。またこうして安心してお盆の法要に参列することができるのは、治安を守ってくれる国のお陰であります。そしていうまでもない父母への恩、ひいてはすべての生物につながる先祖の恩があります。衆生の恩も、わたしはきょう八時三十五分の新幹線に乗って東京へきたわけですが、ちゃんと決められた時間に安全に到着し、乗り換えて中野まで来ることができた。そしてタクシーで、成願寺までと言えばきちんと乗せてきてくれます。これは、人々のつまり衆生の恩です。それぞれが職場で自分のつとめを果たし、私がその恩を受けることができた。

 ということは、わたしは四恩のお陰さまでみなさまの前におります。この恩に報いるためにも、少しは役に立つお話をしなければならない。

 自分がなしたことは、新しい原因、結果となって世の中に伝わっていきます。善因善果、悪因悪果といわれるように、いいことはいい結果を生み、悪いことは悪い結果を生む。つながっているわけです。

 よく、「人に迷惑をかけてはいけない」といわれます。私も子どもにそう言ってきかせます。日本人が大事にしていることばです。でも、生きていれば必ず人に迷惑をかけます。ですから、迷惑をかけないように努力をしなさい、ということですね。ですけどやっぱり迷惑をかけないと生きていられないのが人間なのです。そうしますと、「あなたもわたしに迷惑をかけなさい、引き受けますよ」そういう気持ちでいることが本当だろうと思うのです。

 けれども、近ごろはどうもそういう解釈をしない人が多い。人に迷惑をかけなかったら何をしてもいい、そう考える若い人が多い気がします。人が見ていないときにこそ、わが身を慎み、なるべく迷惑をかけないようにと過ごすべきと思いますが、人が見ていなければ、ごみの不法投棄もしますし、援助交際もやる。悪いことでも、目の前に人がいなければ悪いと思わない、そういった人がいるわけです。

 また、今の人はわりあいに「ありがとう」ということばをよく使います。なにかするとすぐに礼をいわれる。でも昔はあまり言わなかったと思います。とくに家庭では、たとえば子どもが手伝いをするのは当たり前でしたから、わざわざ「ありがとう」とは言わなかった。

 アメリカ人は気軽に「サンキュー」ということばを使います。あんな気持ちで「ありがとう」を使うようになったのでしょうか。どうも、ちょっといじわるな見方かもしれませんが、何かその人のためを思ってしますと、「ありがとう」と言われるわけですが、なんだか領収書みたいです。あなたからこうしてもらったけど、私は「ありがとう」という領収書をあげるから、これでもういいよね。どうもそういう感じがするのです。

 ある仏教学者が、インドのカルカッタの大学に留学した時の話です。とある家に下宿をして通学したそうですが、そこの娘さんがよく面倒を見てくれたので、そのたびに「サンキュー」「サンキュー」と言っていた。23日たったとき、その娘さんがたまりかねた様子で、「あなたを家族として迎えたのだから、サンキューなんて他人行儀なことはいわないでください」。その時、「ありがとう」の本当の意味は何なのかを考えさせられたということです。

 「あなたがしてくれたありがたいことについては、お礼を言ったからね」こういうドライな関係が強くなった気がするのです。本来あるべき、人に情けをかける、親切にするという連鎖が断ち切られてしまう。「情けは人のためならず」。でも、情けは一たん断ち切られるとなかなか続いていかない。「ありがとう」ということばは、いいのかな、悪いのかな、と今考えさせられています。

互いを尊重しあう社会に

 戦後の教育は、基本的人権とか自由についてよく教えてくれました。でも、大切なことが欠けていたように思います。それは、他人の人権を認めて、はじめて自分の人権が認められる。他人の自由を認めて、はじめて自分の自由が認められるということです。人を尊重する、と置き換えてもいいと思います。いまはとにかく、自分が自由だということだけが、大切になってしまいました。

 とくにバブルの頃はお金がいちばん大事であって、札束で頬をはたくようにして地上げを行なったり、ヨーロッパ美術の誇りでありますゴッホの「ひまわり」を50数億円で買ったり、ニューヨークのロックフェラーセンターを買った日本人がいました。人を尊重するなどということとは、かけ離れたことです。

 そしてバブルがはじけた後は、とにかく不況から立ち直ろうと規制緩和を次々に行ない、成果だけが大事だという風潮が主流になりました。いま考えますと、おそらくバブルとバブル以降の不況のころが、日本社会の大きな変わり目であったと思うのです。日本のいい伝統があの頃みるみるなくなっていったわけです。

 そして何が残ったかと言いますと、自由や平等をはき違えた人間の、欲望の巨大化、自我の肥大です。それは、物やお金に対してだけではなく、精神的な欲望の暴走にもみられます。たとえば、昔は映画を見ていても、人の裸なんか映らなかったでしょう。それがだんだん下がってきて、胸が見えるようになったり、今はインターネットがありますから、どんどんエスカレートしている。子どもでも、裸を見ようと思えば簡単に見ることができてしまう。

 昔は手に入らないものの典型であった「人の気持ち」も、今は手に入らないとわかるやストーカーになる。さらにいのちまでもを奪うことで欲望を満たす、そういう事件が起こっています。

 そして、規制緩和ばかりしていたはずが、皮肉なことに、個人情報保護法を生んだ。規制緩和をしすぎて、道徳や日本人の品格までもがなくなってしまった。電話番号さえ怖くて人に教えられないという、かえって住みにくい世の中になってしまったのです。

 アメリカのお金持ちは、フェンスで囲まれた中に住んでいて、その入口はガードマンが見張っている。そういう街が二万か所あるそうです。日本も、暗証番号を入力しなければエントランスにさえ入ることができないマンションが増えています。規制の緩和が人間の品性を劣悪にし、かえって規制が必要な社会になっているわけです。

 ほんの20年ほど前の日本は、みんなが中流意識をもって生活をし、非常に安全な国でありました。世界的に見てもそういう国といえました。しかし今はどうでしょう。毎日のように親殺し、子殺しがあり、犯罪が多く自殺もあとを断ちません。貧富の差も激しくなって、日本は世界で五番目ぐらいにその差がある国になってしまったそうです。

 2001911日の世界同時多発テロ、飛行機がお客を満載してビルに突っ込むという、ああいう恐ろしい映像を繰り返し繰り返し見させられて、世界中が非常に不安になった。水と安全はただではないと、きいた風なことをいった評論家がいましたけれども、水と安全はただでなければならないというのが本当です。お互いがお互いを尊重しあえば、安全なのです。

 若い世代は、ほしいものがあれば夜でも正月でも営業しているコンビニのある社会で育ちました。便利になったと思うと同時に、夜中におにぎりが買える事が本当の便利なのでしょうか。

 さらに元旦から営業をするということは、家族そろって新年を迎えるということをしなくしてしまったということ。これは大きな間違いだろうと思います。お正月、またお盆くらいは、家族で初詣をし、お寺、お墓にお参りをする、これが生きていくうえでの節目として大切なわけです。

 また、生後わずかな赤ちゃんを人に預けて仕事に出るお母さんが増えました。いろいろな事情もあると思いますが、これが何を意味するか、生まれたときからすぐ消費者になるということです。要するに「お客さま」なのです。あまり厳しくしつけると、「あそこのベビーシッターはおっかないからよそにしよう」お客がいなくなります。赤ん坊のうちから「お客さまは神様です」という対応を受けるわけです。

 お釈迦さまの教えの根本は「あまり欲をかかないで満足することを覚えましょう」ということです。欲望のコントロールをすることが、人間のいちばん大事なことであります。

 生きていてよかったなと、先祖に感謝し、互いに尊重しあって日々を過ごしていけたらなと思います。

 本日はありがとうございました。        合 掌