平成18年 年末の会・納めの観音説教

 『いのちのもとが観音のちから』

   武蔵野市  観音院住職  来馬 正行

 

 こんにちは。私どものお寺は、中央線武蔵境駅の南口にあります観音院と申します。江戸期の新田開発のころにできたお寺で、開創以来320〜330年たっています。きょうは観音様の納めの日にお招きをいただきまして、このご縁に感謝しております。

 「観音経」の偈文に「慈眼視衆生 福聚海無量」とございます。「慈悲の眼をもって生きとし生けるものを視るものなり。その福聚の海は無量なり」という、「観音経」を総括している表現であろうと思います。このことばを味わいながら、きょうは時間の許す限り、みなさんと「観音さまって何だろうか」ということを、学んでみたいと思います。

 きょうみなさんは観音堂でのご祈祷で「般若心経」と「観音経」をお唱えになられました。この二つ、とても内容が似通っていますが、「般若心経」は、265文字で仏教の真髄というべきことをまとめたお経です。「観音経」はもうちょっと長いのですが、みなさんがお唱えになったのは偈文で、これに前文がございます。「爾時 無盡意菩薩 即從座起 偏袒右肩」と始まりますが、私たちはこれを散文体で読みます。要するに話し言葉、口語体です。後半の偈文は、これを詩に直したものです。

 「観音経」の正式名は「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」。この題を分けて見てみますと最初が「妙法」、これが大事です。みなさんも「妙だな」といいますね。「妙な天気だな」とか使います。なんで妙だと思われますか。それは不可思議だということです。人間の頭脳、思考を超えてしまう世界、それが妙です。その妙なる世界を「妙法」といった。「法」は事実、真実のことをいいます。つまり私たちの不可思議な、思議できない世界が「妙法」仏法の世界です。

 「蓮華」は、仏像の多くは蓮華の台に乗っていますが、これにはお釈迦さまの思いが表れています。蓮華は花と実が一緒です。不思議だと思われませんか。花が咲いていると実もできている。これは、因と果がぴったり一緒ということです。

 お釈迦さまは北インドを中心に、じつに45年もの間、不可思議なる仏法の世界、「妙法」を説き歩かれました。これを説かなければ衆生は迷う。そういう使命感で歩かれたのです。その旅の途中こころ惹かれたのが、泥沼に咲く蓮華です。われわれは、だいたいが泥沼は嫌いです。つまり環境を選ぶ。なるべく自分の都合のいいところを探します。しかしお釈迦さまは、選ばず泥沼に咲く蓮華に魅力を感じられた。それで「蓮華」が仏教を象徴する、お釈迦さまの思いを象徴する花になったということです。

 「経」は教えですね。それから「観世音菩薩」、「観世音」は観音さまのことで、「菩薩」は世のあらゆる音を聞くということ。つまり、すべてを救わんとします。「般若心経」には「観自在菩薩」と出てきます。この二つは同じです。観音さまは、「自在」であるということが大事です。それは自由自在「普門」ということです。なにが自在かといいますと、大自然のありのままが自在であるというのです。

 私たちはこうして生きておりますけれども、なかなか真理に暗い。なぜかといったら、人間というのは外に惑わされるのです。われわれは「眼耳鼻舌身意」、六根六識という働きをもって自分の外を見ています。そして、それによって惑う。目で見たもの、耳で聞いたもの、鼻でかいだもの、口で味わったもの、触れたもの、そういう情報を自分の中に入れますと、その情報に色合いをつけてしまう。これが好き嫌い、人間性です。

 ところが自然界はとらわれがない。ありのままです。こういう自然界をお釈迦さまは悟られた。

 お釈迦さまのお悟りを伝えることばに「大地有情 同時成道」があります。お釈迦さまは128日に、仏陀伽耶の菩提樹下で、暁の明星を見て深く禅定に入って悟られたと伝承されています。「大地」は、私たちが住んでいる地球、こうして住む世界。「有情」は、「一切衆生」といいますが、あらゆる生き物です。つまりこの世界のあらゆる生き物は、「同時」に「成道」している。それは同じ時間に存在しているものが全部、同時に進んでいるということ。この自然の摂理そのものを悟られたというのです。時間は戻りません。みなさんもいま、どんどん歳を取っていますね。全部が全部、一方通行なのです。

 

人間の自我に気が付く

 お釈迦さまは私たちと同じ人間です。現在のネパール、迦毘羅国の王子としてお生まれになりました。それなのに思うところあって、29歳の時に出家してしまわれます。正しい指導者をめざして歩き、その結果苦行をするわけですが、その行がひじょうに極端だった。山に籠もって断食をしたり、睡眠を省いたり、宙吊りになったりする。つまり肉体を苦しめることによって、煩悩が消えるのではないかと思った。ところが全然消えなかったのです。消えるどころか、からだはぐあいが悪くなり、精神も錯乱してしまう。そうして6年という期間をかけて、苦行をしても煩悩は消えないということを見極めた。

 山を下り、近くの尼連禅河という川へ行きました。その川で沐浴をしているところに、美しい娘さんがやってきて、乳粥を供養してくださった。これがみなさんご存じのスジャータという人です。お釈迦さまは「このお粥はありがたい」と感激されます。なぜありがたいかといったら、からだを満たしてくれたわけです。衰弱したからだがあっという間に元気になった。そこにひじょうに感激したのです。からだは素直ですね、自然なのです。

 この時、自分が本当に間違っていたと気が付かれました。自分に固執していたということ、自分のわがままに気がつかれたのです。人間というのは、自分の理想を満足させるためには何でもやってしまいます。お釈迦さまは自分の理想のために体をいじめていた、自然に抗っていた、それが間違いであったとわかられた。

 

自然とともにあるいのち

 先ほどお話ししました「同時成道」、これはひじょうに大事です。みんなが一緒に古くなると思っていただけたらいいです。いずれ全部いなくなる……、というよりは変化するといったほうがわかりやすいですね。

 これを「般若心経」では「不増不減」と表現しますが、減りもしなければ増えもしないということです。それはそうです。地球という星のなかの出来事ですから、およそ減りもしないし増えもしない。成分が循環しているだけ。

 ハワイ島に行きますと、「すばる」という大きな天体望遠鏡があります。富士山よりも高い、4.200メートルのマウナケア山の山頂にあるそうです。ハワイにそんな山があるのをみなさんご存じでしたか。雪が降るそうですよ。そこに日本人がつくった「すばる望遠鏡」がありまして、たくさんの星が見えるそうです。

 星は不思議です。いま見えていても、死滅したものも見えているといいます。光が届くのに何万光年もかかっているわけですから、見えたときにはすでにないということがある。これが宇宙の時間です。こう考えますと、われわれの一生なんて、「無常迅速」、あっというものです。

 星も死滅することがあるわけですから、地球も例外ではありません。変化しているということです。ましてそこに住むあらゆる生き物は、「同時成道」みんなで変化していますね。われわれのからだはいずれ分解され、地球の循環のひとつになる。

 そういうことをお釈迦さまは悟られた。そして「自分のからだだから何に使ったっていい、苦行して断食しようがいい」と思っていたのがそうじゃなかった。あらゆる生き物は同時に進む。それが自然で、その自然とともにある大事ないのちを、「どうして自分の理想だけのために傷つけたんだろう」と反省された。乳粥がからだを癒してくれた。自分の好き嫌いではなくて、からだのほうが受け入れた。正直でしょう。これが自然なのです。

 仏教の教えは「このからだを、このいのちを大切にしなければならない」。これが基本ですね。

 道元禅師のことばでいいますと、

 仏道を習うというは自己を習うなり

 自己を習うというは自己を忘るるなり

 自己を忘るるというは

 万法に証せらるることなり

 自分のからだと思っていても、考えてみれば、自分のからだではない。そうですね。予約をして生まれてきた人は1人もいません。この容姿、この体つきがいいと選んだ方はいないわけです。

 人間の一生は、じつは自分では解決できないところで生かされているということ。このことに気付いていただきたいのです。だって自分の寿命もわかりません。きょうかもしれないしあすかもしれません。寺の住職をしておりますと、「死んだらどこへ行くんですか」とよく聞かれます。「私も行ったことがないので、なんとも答えられません。帰ってきた人を見たことがないですし…」。これが事実です。一方通行、後戻りはできないんですね。刻々と過ぎています。

 

生死のなかにある人生

  「観音経」に「生老病死」ということばが出てきます。「四苦八苦」とはここからきた言葉です。これはお釈迦さまの教えをとてもよく表しています。「生まれる」、「老いる」。このままです。生まれたからには戻ることはできません。若返る人はいません。「老」は、進んでいるということです。戻らない事実をいったのです。

 それから「病」。病気は、からだのなかの変化をいいます。薬を飲むようになったりお医者さんに行くようになったら、ひどくなっているということです。良寛さんは「病む時は病むがよく候。災難にあう時は災難にあうがよく候。死ぬる時は死ぬがよく候。これは災難をのがるる妙法にて候」といっています。つまり、どうもならんだろうというのです。

 生まれたからには老い、病にもなります。でも、自分で病気になりたいと願う人はいない。からだが自然になるのです。闘病生活と言いますが、闘病しなくていいと思います。むしろ仲良くする。ほんとうは病気と仲良くなりたくありませんが、でも仲良くしたほうがいい。自然に抗わない。

 それから「死」、これはとてもわかりやすいですね。この世から別れる。いつかはわかりません。お釈迦さまも、王子として生まれ、老い、最後は病気で亡くなった。215日、沙羅双樹の間に、北に頭をめぐらして果てた。食中毒だったと伝わっています。あっけないですね。お釈迦さまが食中毒だそうですから、なにも特別なことはありませんね。お釈迦さまも亡くなってよかった。2.500年生きていたら気味悪いですからね。ちゃんと人間であったということです。

 これが「生死」、無常です。「生老病死」をもっと縮める、人間というものをもっと簡潔にいうと「生死」そのものなのです。お釈迦さまも人間ですから「生死」のなかを生きられた。絶対にかえられない自然界の事実です。

 その無常なるものを支えているのが観音さまなのです。みなさんは先ほど「念彼観音力」とお唱えされました。観音の力とは何だと思われますか。お釈迦さまは、この観音の力を悟られたのです。

 「生死」というのは人生全体です。道元禅師も「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と説かれています。「一大事の因縁」とは、お釈迦さまが悟られた内容。自然界の事実です。生まれたら、老いて、病気になったりして死ぬ。わかりやすいです。人生ってこれだけです。

 そのなかの付録として、結婚をしたり、子どもが生まれたり。また人間の五欲、おいしい物を食べたり、睡眠をとったり、それから性欲というのもあります。このごろは横文字でセックスなどといいますが、雄と雌がおれば自然界にあたりまえにあることです。ただ、人間は「十重禁戒」のなかで説かれていますが、「不邪淫戒」あまり旺盛にやるなということです。それから財産欲や名誉欲がある。それだけですね。あと人生に何かありますか。

 自分の人生を客観的に見てみます。一つの尊いいのちです。それを気づかせてくれるのが「観音経」です。前半では七つの難から逃れるということを説いています。後半の偈文では12に増えて、少し文学的に人間は災難をどう受けとめていけばいいのかを説いています。しかし、災難の元は人間の自我、思考がつくっています。

 人間のからだはすごいですよ。こうやって私は立っていますが、立って歩くというのはすごいことだと思われませんか。24〜25センチの足は2つしかないのに、なんでそれだけで歩けるのかと思います。しゃべることも、食べることもそうです。これからお弁当が出るそうですが、食べ物だって、好き嫌いがあるのは口元までです。「これ、おいしそう」「これ嫌いなの」。ここまでが自我、思考。ところが世の中にこれしかないよといったら、口の中にパクッと入れますよ。スーパーやコンビニへ行けばすぐ手に入る、そういう卑しい根性がありますから、好き嫌いがあるのです。あしたから食べられないとなったら、なんでも鵜呑みにしてしまいます。

 鵜呑みにしたらそのままで、あとはお任せです。毎日胃や腸に「きょうは固形物をいっぱい食べました」「焼酎を飲み過ぎました。ごめんなさい」なんていっていませんね。食いっぱなし、飲みっぱなし。あとはお任せです。そういうところで生かされている。でも普段は気がつかないのです。70歳の方は、70年間、体は一回も休んでいません。感謝したことがありますか。どうぞきょうはこのからだに感謝していただきたいと思います。

 

観音の力にいかされるわたしたち

 「念彼観音力」の「念」は「おもう」ということですが、「思う」でも「想う」でもない。「深く念う」という意味があります。「彼」は尊ぶ。なにを尊ぶか。観音の力です。いのちを支えているもとです。

 観音はあらゆるものを救済していきますが、それはそうです。いのちのもとですから。人間が勝手なことばかりやってからだをいじめる。でもそれを否定しないで支えているのが観音の力です。その自在に働くいのちのもとを「菩薩」と称したのです。

 「観音経」は「災難というのはあっという間の生死のなかの出来事。根本は救われている」と、こういうところで私たちに教えを説いてくださっています。これが励ましのことばとなって「念彼観音力」。このいのちに感謝せよということです。そう思ってこのお経を味わっていただくと、すばらしいお経だと気付かれると思います。

 観音の力、その根本はお釈迦さまのお悟りであります「大地有情 同時成道」。そしてそのお悟りは、「四苦八苦」の「四苦」、「生ずる」「老いる」「病になる」「死ぬ」ということです。これらをわたしたちは恐れますけれども、恐れる必要はありません。こういう現実のなかで生きているんだということです。この事実をしっかりと受けとめていただきたいわけです。

 いのちのもと「観音」。観音さまは、われわれの理想としてお像となった。でもなにをやっても救ってくださる、この文句をいわないからだがじつは観音さまなのですよ。それを忘れないでください。それを気づかせてくれるのが「観音経」なのです。

 慈悲深い観音像を拝みながら、どうぞ自分のいのちを尊ぶきっかけにしていただきたいと思います。

 本日はありがとうございました。             合 掌