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御本尊釈迦牟尼佛如来 悟りの姿を示す御本尊
御本尊の坐像は、釈迦牟尼佛如来 つまり仏教の開祖お釈迦さまです。
お釈迦さまは、およそ2570年の昔、インド大平原北辺の盆地に暮らしていたシャーキャ族の王家に生まれました。そして29歳で王宮を出て修行の道に入り、6年の苦行の後、35歳のときに悟りを開いたと伝えられています。御本尊の釈迦牟尼佛如来は、その成道のお姿を示しています。
文化財としても貴重な尊像
日本での仏像は、初めはおもに朝鮮半島からもたらされました。はるかな過去の飛鳥時代のことです。
すぐに日本でも造られるようになりましたが、初期の仏像は渡来した仏師たちの手によるものと考えら
れています。
そして、奈良時代には巨大な大仏が造られるなど、平安時代にかけて仏像はさかんに造られるように
なりました。奈良や京都には国宝に指定されている美しい仏像が数多くあります。
その仏像彫刻が大きく変化したのが鎌倉時代でした。それまでの仏像が大陸ふうで、どちらかといえば無表情だったのに対し、非常に写実的で表情豊かな仏像が造られるようになったのです。衣の襞なども力強く造形されました。
次の室町時代には、禅宗が大きく発展した中国宋代の技法も日本で広まり、仏像の様式が円熟しました。
成願寺の御本尊は、その室町時代前期の木像(材は桧)で鎌倉様式を踏まえ、文化財としても貴重なものです。特に衣の襞が蓮華座の両脇に長く垂れている形が大きな特色となっています。
御先祖の心を伝える御本尊
室町時代は京都の金閣寺などに見られるように、日本で禅宗が広まり、定着した時代でした。しかし、
一方では未曾有の動乱の時代でもありました。御本尊が造られた前期は、いわゆる南北朝の争乱の時期
です。そして、応仁の大乱(1647〜1677)の後、世は戦国時代に突入します。
この争いの時代にも、御本尊は大切に守られてきました。そのことは、古い仏像であるにもかかわらず、修復の跡がほとんど見られないことによってわかります。ただ、玉眼だけはいつしか失われたらしく、江戸時代の延宝八年(1680)に新しく入れられたことが胎内に納められていた木札によって確かめられています。
御本尊の光背は、戦後のものです。というのは、昭和20年5月25日の大空襲によって、成願寺は全山焼失の被害を受けたからです。そのおり、御本尊は防空壕に移されて守りぬかれましたが、光背は燃えてしまったのでした。その防空壕の跡は、今も本堂裏手に残っています。
御本尊は、もとは金箔を張った黄金の仏像でした。長い歳月を経て金箔がはがれ、香の煙なども染みいって現在の黒ずんだ色になっています。
その黒く深い色合いには、御本尊を守り、御本尊に祈りをささげてきた御先祖の心がこもっています。
そのため、多田瑞穂先生によって為された昭和の大修理(昭和46年・詳細は季報9号)に際しても新たに金箔を施すことなく、時代を経た色調がそのまま残されています。 十六善神
十六善神は幸せを招く大般若転読会の御本尊です。武人姿で恐ろしい武器をもっているのが普通です
が、当山の十六善神は穏やかな表情が特色です。その中の一人は大きな笈摺(背負い箱)を負い、手に払子を持っています。
これは中国・唐の時代に遙かインドに経典を求めて旅をした玄奘三蔵(602〜664)の姿です。
玄奘三蔵がインドに旅立ったのは、二十代の中頃。飛ぶ鳥さえないという中央アジアの沙漠を超える旅でした。昔は恐ろしい妖怪が棲む地の果てと考えられたところです。その沙漠で流砂に苦しんでいたとき、深沙大将という鬼神が出現して玄奘三蔵を助けたといいます。深沙大将は沙漠のような厳しい所で遭難した人を救う善神で、病気を治し、災難や悪事を遠ざける善神とされています。
十八人の羅漢に見えるのは、玄奘三蔵と深沙大将のほか、十六善神と呼ばれる神々です。十六善神は
般若経とその受持者(読誦等を行う者)の守護尊で、旅の玄奘三蔵と共に描かれるのが普通です。なぜ
なら、大般若経六百巻こそ、玄奘三蔵の手によって漢訳された経典を代表するものだからです。
ちなみに、玄奘の旅はおよそ20年にわたる長期でした。645(または643)年に長安(今の西安)に戻った玄奘は、その後、持ち帰った経典や論書の翻訳にあたり、訳出した総数は1335巻に及びました。それはとうてい普通の人には為しえない偉業ですから、深沙大将や十六善神の加護があったと考えられて当然なのです。そして今日でも、大般若転読の法会では十六善神を本尊として掲げているのです。
成願寺の十六善神
当山の御本尊の背後に、18人の羅漢に見える尊像を浮き彫りにした板が奉安されています。高さ2メートル、幅2.6メートルの大きな木彫レリーフです。
寺宝として伝わる十六善神画像を木彫で復元したもので、彫刻家の関有雅先生によって2年の歳月をかけて完成されました。平成10年1月18日、新しく刷り上った大般若経六百巻の転読をもって十六善神開眼供養が厳修されました。転読とは、経名や経典の要文を唱えながら次々に経巻を繰っていく法会です。大般若転読会は奈良時代に諸国の官寺で営まれたのをはじめ、五穀豊饒、病魔退散、怨霊降伏などの霊力のこもるものとして
四季おりおりに行なわれてきました。 そのため、大般若経は非常に多く書写されて各地の寺院に伝えられていますが、古い写経では六百巻がそろっている例がほとんどありません。それというのも、かつては大般若経の経巻を箱に入れて御神輿のように練りあるく祭礼が年中行事として広まり、病気のときには寺から経巻を借り受けて平癒を祈るといった信仰が盛んだったからです。
大般若経は経蔵の奥深くにしまわれていたのではなく、人々の除災招福の祈念を受けて常に持ち出されました。そのため経巻が傷んだり紛失したりして、いつしか六百巻がそろわなくなった例がほとんどなのです。今日では大般若経の心髄とされる般若心経の読誦が盛んですが、かつては大般若経六百巻の転読こそ霊験あらたかとされたのでした。
成願寺でも同じような信仰を受けて大般若経が伝えられ転読会も行なわれていましたが、戦災により経典を焼失しました。木彫レリーフ完成後は、毎年一月第二日曜日に大般若転読会を厳かに営なんでいます。
ところで十六善神は普通は中国の武人姿で、十二神将と四天王のことだともいわれます。沙漠のような苦況から人を救うには、強力な武人姿のほうがふさわしいからでしょう。
しかし、成願寺の十六善神は禅宗寺院らしい羅漢姿で、表情も悠然としているのが特色です。穏やかな味わいの尊像です。
正面の額 『大雄宝殿』の書は、当山三十三世舜学義尭大和尚によるものです。
浄財箱の 『功徳無量』の書は、当山師家鈴木格禅先生によるものです。
向拝の聯(れん)について
本堂の聯には、「去年の梅本年の柳、 顔色馨香旧に依る」とあります。これは室町時代初期の名僧であり、当山開基鈴木九郎の師、小田原大雄山最乗寺第五世舂屋宗能(しょうおくそうのう)禅師の言葉です。(詳細は季報22号参照)
この書は、同最乗寺第十八世山主、元大本山総持寺副貫首 余語翠巌(よごすいがん)老師(平成8年12月21日示寂)のご染筆によるものです。南書院にもこの書を掛けてあります。 |