『私の戦争体験』

     檀 家   戸田 善之助

 

 昭和18年12月1日、世に言う学徒出陣で、京浜地帯の防空を担っていた高射砲聯隊(本部・川崎市役所)へ入隊のため、指定の川崎競馬場に出頭。ここで入隊者は各陣地へ分散され、私は鶴見川河口の陣地に引率され、半地下の待機壕が兵舎に充てられました。ご承知の通り、軍隊は階級社会ですので、襟に星一ツの二等兵の最下級から軍隊生活がスタートしました。

 初年兵教育(三ヶ月)の期間中に兵科(高射砲)と経理部の幹部候補生(略して幹候)採用試験で私は経理部に採用されましたので神宮球場前(現都立青山高校)の近衛聯隊に移り、三ヶ月間の集合教育が実施されました。週の前半はお濠端の武道館の位置にあった防空集団司令部へ学科の授業で通習、我々だけで隊列を組んで青山通り、赤坂見附の弁慶橋を渡り清水谷公園で小休止、紀尾井坂から半蔵門に出てイギリス大使館前からお濠を渡って乾門で司令部への往復。娑婆の空気に触れられて楽しみでした。後半は代々木練兵場で歩兵の訓練でした。軍隊に初めて入ると誰でも堪えられない経験を或る期間するのが空腹感ですが、集合教育期間中は毎日曜日は外出が許可されましたので、実家が近い私は一目散に帰って空腹を癒やしたことが思い出されます。

 集合教育終了時に甲種と乙種に選別され、甲種が経理学校に入校します。私は甲種で6月1日東京陸軍経理学校(小平市)に11月末に卒業予定で入校しましたが、9月早々に突然、三百名が昭南陸軍経理学校(「昭南」はシンガポールを改称)へ転校することになりました。戦局の逼迫につれ南方地域との航行の遮断が想定されるので、予め南方地域に対する内地よりの主計将校の最後の補充要員として、急に現地教育に変更されたような事情です。父も母も健在、兄弟も多い私のような男子は、外地へ送るのに格好だったのです。

 一週間の外泊後、偕行社(陸軍将校のための施設)より買い求めた将校用軍装品一式を携行して門司港で乗船しました。スマトラ島に原油を積みに行くタンカー十隻と、欧州航路の花形客船であった浅間丸(台湾まで同行)の計11隻の船団で、タンカーは甲板にいずれも飛行機、戦車、トラックを剥き出しで積み込んでいました。こんなに目立ったら敵潜水艦の格好な餌食ではないかと一抹の不安を覚えました。しかし、当時としては異例の護衛態勢で、日中は改造空母の航空機による哨戒、夜間はボーン!  ボーン!  とすごい爆音をたてる駆逐艦の爆雷投下で敵潜水艦の接近を阻み、途中台湾の高雄に寄りましたが、15日間の航海で無事昭南港外に着きました。

 私の乗船したタンカーには飛行機が積んでありまして、航海の間中、翼の下で雑魚寝、海に囲まれた旅路でした。でも、出発前の説明では、終戦の前年、昭和19年のことですから無理もありませんが、「10隻出発してたどり着けるのは、2、3隻。運が悪ければ全滅」と聞かされていました。ですから、ともかくまた地面を踏めたことにずいぶんほっといたしました。私たちが高雄を出発した明くる日、高雄の町は大空襲。また私たちの少し後に同じように門司港を出発、昭南を目指した半数の150名の船団はフィリピン沖で船を沈められ、1カ月遅れて学校に到着したため、卒業が我々より1カ月遅れでした。私たちが乗船したのは空のタンカーでしたので吃水が浅いため魚雷の命中率が落ちるので敵潜も敬遠したのではないかともいわれました。しかしそのタンカーは日本に戻る時、今度は油を積んでいましたらスマトラ島を出航してすぐに全滅したという話も聞いています。

 着いて間もなく、白波を蹴立ててやってくる検疫のランチの船尾にはためく日の丸の小旗を目にした一瞬、ああ、遥かなるこの熱帯の地にと感じ思いました。

 航行中、駆逐艦乗組員の水葬の場面に遭い、厳粛な気持でお見送りしたこともありました。

 

 10月より経理学校の補講が開始され、毎晩就寝前、校庭で区隊長以下全員が「海ゆかば」を斉唱。いよいよ臍を固めさせられておりました。12月末、晴れて卒業と同時に経理部見習士官(将校待遇)となりました。大晦日の夜、第29軍司令部(タイピン市)に配属された我々32名は昭南を列車で発ち、翌昭和20年元日の早朝、途中のクアラルンプール駅で予想もしなかった雑煮を祝うことが出来て一同大喜びでした。戦地とは言いながら正直、余裕があるものだなと思いました。

 タイピンの軍司令部で、軍の経理部に残るもの、隷下の師団、旅団の経理部へ赴任するものなど発表がありました。ところが、私は軍の参謀部付で南泰機関(通称、南泰連絡事務所)勤務を命ぜられました。主計と言えば経理部というイメージが一般のことですので些か面喰った気持ちでした。この時、アンダマン諸島守備の旅団の経理部へ赴任する5名の仲間は、1ヶ月以上に亘ってペナン島で待機して、やっと見付けた船便で出港。、しかし既に我が方に制海権はなく、出発の翌日、敵潜水艦により痛ましい最期を遂げました。このことで戦地の現実を痛切に思い知らされた私でした。

 タイ南部のマレー半島北部にあるクラ地峡は、幅40〜64キロメートルで半島の最も狭いところです。当然、南北の遮断を狙った英軍の当地域への上陸が想定されました。タイ国は第三国でしたので協定の上、軍は威烈師団を当地域に陣地構築して展開させました。そこで、タイ国軍側との渉外に当るため、タイ軍司令部所在の半島部東海岸のナコンシータマラトに当機関が設置されました。山田長政が封ぜられたといわれる町でした。

 機関は軍参謀の中佐を長とし、他に外務省出身者や中野情報学校卒の将校等で組織され、私は機関の機密費担任官でした。機密費の取扱いは主計将校に限っており、資金の性質上、私の所属は経理部からは離されたようです。しかし、私には他に当地域の経済状況の調査業務が課せられていました。

 例えば、

○軍票とバーツと海峡ドルとの交換比率

 占領地であるマレーシアは日本軍の軍票が流通されてますが、多年にわたりイギリスの植民地でしたので当時の海峡ドルが闇で横行しており、また、タイ国とは地続きですので、これら通貨は戦局の逼迫につれて比率が変動し、軍票の価値低下は重大な問題でした。

○タイ南部の米の闇ルート

 戦局悪化による軍票の価値低下は、米の確保の難しさにつながり憂慮すべき問題になりつつありました。タイ南部では或る地点まで鉄道輸送されてから海上輸送でマレーシア方面に流される情況でした。

 

 与えられた20近くの調査項目には難問も数あって、悩まされながらの業務活動でした。

 

 1月下旬、威烈師団長の四手井綱正中将がタイピンの軍司令部への途次、ナコンシータマラトのタイ軍の師団長セナ・ナロン中将を着任以来始めて表敬訪問することになりました。タイ側では専用の展望車を用意して高級参謀がお迎えに行くことになり、そこで私はタイ軍参謀をクラ地峡の師団司令部へ案内するよう命ぜられました。

 因みに、人柄がしのばれるセナ閣下にお会いすると必ず温かい言葉を掛けていただき、私には深く印象に残る忘れられ得ない将軍です。人望のあった閣下の遺徳をしのび、姓を冠したセナ基地が国境の町ハッジャイから程遠くないところにあります。

 

 椰子の林の中の威烈兵団司令部は、アタップ葺きの師団長宿舎を要として参謀部、経理部等々の建物が点在、臨戦態勢がひしひしと感じ取れました。当地域には1週間前に空襲があり、チュムポン駅外れの鉄橋が破壊されて応急処置が終ったばかりでした。そこで、機関車は空襲を警戒して我々の乗っている展望車をチュムポン駅の隣駅の構内に残したまま、何処か掩体のあるところまで退避してしまいました。

 当時のタイ国の道路事情は誠にお粗末で、バンコクへ通じる道路はなく、従って、半島部は南北の道路が全くありません。ですから、隣駅へさえ車で行くことも出来ず、鉄道が唯一の交通手段でした。しかし、鉄道の運行管理は第三国のタイ側にすべてあり、時刻表より3時間位の遅延は当り前で、寧ろそれが正常のような悠長な運行振りでした。

 さて、翌朝、肝心の機関車が予定時間になっても現われず、タイ軍参謀も連絡がとれず処置なしの状態。結局、6時間も予定を超過してやっと正午にチュムポン駅に着きました。

 師団長閣下に長時間の待ち惚けを食わせてしまった大失態に困惑の極みの私は、ホームに飛び降りて申告するや否や、随行の師団参謀からど偉い一喝を食らわされたことは当然のことでした。

 にも拘らず、列車内では師団長閣下に一介の見習士官である私が二人きりの差しむかい。お付きの人たちはそれぞれ待ちくたびれて退がってしまい、10時間という長時間に亘って師団長閣下のお話を伺わせていただきました。このことは当時の軍隊では到底考えられない前代未聞のことでした。

 陸大卒業時、恩賜の軍刀組である四出井閣下は威烈師団に着任して僅か4〜5ヶ月間でビルマ方面軍参謀長、その後間もなくして関東軍の方面軍参謀長へと、1年未満の僅かな短い期間内での人事移動は、戦局いよいよ終盤を迎えつつあった東京の中央部の慌ただしさを如実に物語っているのではないかと、一介の下級者は身の程知らずの憶測をしました。

 閣下は満洲へ赴任の途次、搭乗機が台北飛行場近辺の山腹へ激突して亡くなりました。誠に哀惜の情、切なるものがありました。同機にはインド独立の志士と言われたチャンドラ・ボースも同乗しておられました。

 

 終戦時の玉音放送を聞いて、私は学業半ばの入隊でしたので咄嗟に、帰国して学業再開出来る希望が湧き出ました。これで帰れるかと思ったのです。

 結局ポツダム。主計少尉には語れるほどの体験もなく、ただ、終戦までの軍隊生活を正直に羅列したに過ぎませんが、少なりともご参考になれば幸に存じます。           悪文、悪筆 多謝