地蔵菩薩は旅の僧の姿をし、どこにでも行って、人々の願いをかなえる菩薩です。とりわけ、幼く死
んだ子の守護尊として信仰されてきました。
幼く死んだ少女のために
成願寺の墓地の中ほどにある地蔵菩薩像は、中野区指定の文化財です。その衣の部分に、次の文字が
刻まれています。
真如院殿一切妙覚童女之霊
寔延宝二甲寅年十一月二十日
この地蔵尊は延宝二年(一六七四)、幼く死んだであろう少女の供養のために建立されたものなのです。
その「童女」は肥前佐賀藩主鍋島家にゆかりの少女と伝えられています。
成願寺と鍋島家との関係は、寛延九年(一六六九)に分家筋の蓮池藩主鍋島直之の子の千熊を弔った
ことに始まります。そして、寛文十年(一六七〇)には、わずか二歳で他界した直之の娘・福(菊露童
女)を成願寺に弔ったという古文書が残っていますが、地蔵菩薩像に刻まれた「一切妙覚童女」につい
ては、死因も俗名も不明です。
しかし、旧暦十一月、冬の木枯らしが吹き始める頃に、一人で旅立った少女の霊を慰めるために建て
られたのは確かなことです。それから三百年余が過ぎた今も、地蔵菩薩は墓地の中にそっとたたずみ、そ
の心を伝えています。
人々の願いを映す地蔵菩薩 成願寺の地蔵菩薩は、今は欠けた部分がありますが、右手に杖を持ち、左手に宝珠を持っています。
その杖は錫杖といい、旅の僧が持つものです。左手の宝珠は詳しくは如意宝珠といい、どんな願いで
も意のままにかなえられるといいます。地蔵菩薩は旅の僧の姿をして、この世でも、あの世でも、どこ
にでも行き、人々の願いをかなえる菩薩です。
というのも「地蔵」は原語では「クシティ・ガルバ(大地を母とする者=大地の蔵)」といい、もとは
生命を育む大地の神だったからです。
日本でも田植地蔵、雨降り地蔵など、農耕にかかわる地蔵菩薩があるほか、健やかな出産・育児を祈
願する子育て地蔵・子安地蔵などの信仰があります。お参りしたら病気がなおったといった話も多く伝
えられています。
そうした人々の願いを反映して、「○○地蔵」と特別の名でよばれる地蔵菩薩は百種以上もあるそうで
す。しかし、なんといっても多いのは、亡き子の供養のために造られた地蔵菩薩です。昔は子どもの墓
として石の地蔵菩薩を建てることも広く行なわれました。
子どもと地蔵菩薩 「これはこの世のことならず。死出の山路の裾野なる 賽の河原のものがたり」
「十にも足らぬみどり児が賽の河原に集まりて、父上恋し母恋し、河原の石を取り集め、一重つんでは
父のため、二重つんでは母のため、兄弟わが身と回向して、昼はひとりで遊べども、日も入りあいのそ
のころに、地獄の鬼が現れて、積みたる塔をおしくずす」
これは地蔵和讃の一節です。死んだ子は、この世とあの世の境目にあるという三途の河原で、建てれ
ば幸せになれるという塔を石でつくろうとしますが、鬼がたちまちくずしてしまう。何度やってもくず
されてしまうところへ地蔵菩薩がやってきて、衣の陰に子どもを隠して守ってくれる。そんな内容です。
「笠地蔵」などの民話でも親しまれている地蔵菩薩ですが、日本の歴史のなかでは、とても哀しい菩薩
でもありました。昔は幼く死ぬ子が多く、この地蔵和讃を歌って、亡き子の霊を慰めたのです。
今は子どもの死亡率が低くなったとはいえ、原因不明の突然死や、難病に苦しんで亡くなる子がいま
す。交通事故などで幼い生命を落とすこともあります。道路脇のお地蔵さまに、亡き子をしのんで供え
られた風車がカラカラ回っていたりすることもあり、世の無常はどんな時代になっても変わらないこと
を感じさせます。
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