關澤明清氏の墓地
 
当山の墓地に「従五位勲四等關澤明清之墓」をはじめとする關澤家のゆかりの墓がのこされています。

關澤明清氏(1842〜1897)は、加賀藩士の子として金沢で生まれました。幕末・明治期、藩士・官吏 として欧米諸国に渡り、万国博覧会等の参加のなかで、先進的な欧米の水産技術(鮭・鱒の人口孵化事 業、巾着網漁、新式の捕鯨事業)を吸収。そして、これらの技術を、大久保(利通)政権下で、国内の 博覧会や日本各地の指導巡回により普及に努めました。まさに、明治期水産業の振興に尽くした人物です。
なかでも、アメリカより導入された捕鯨技術の試験実施は近代捕鯨の先鞭をつけたものとして特筆できるものです。いわゆるアメリカ式捕鯨で、300〜400トンの帆船を母船とし、若干の捕鯨ボートを積み込み、鯨を銃や砲で撃ちとり、鯨油を母船で採油する捕鯨法である。明治13年千葉県鋸南町沖合をはじめ、伊豆大島沖合、三陸沖など各地で捕鯨経験者の協力を仰ぎながら実施している。明治21年には、千葉県館山市で、地元民とともに日本水産会社を設立し、同25年には官を辞し、単独で捕鯨会社を営んでいる。終焉の地となった館山市北下台に彼の業績を記す顕彰碑が今でものこされている。
關澤氏の功績はこれにとどまらない。鮭鱒の孵化事業は、現在の水産庁技師という立場で新潟県三面 川をはじめとする各地河川で試験しているし、水産調査については日本沿岸のみならず、朝鮮半島沿岸 にいたるまで実施している。また、大日本水産会役員、水産伝習所(現東京水産大学)事務取扱兼所長・ 駒場農学校(現東京大学農学部)の長を歴任する等当時の水産の教育普及にも大きな役割を果たしている。
彼の水産業の発展に捧げた生涯は、まさに近代漁業のパイオニアといって過言ではないでしょう。

 
   
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