境内のあちらこちらに、16人の羅漢さんの石像があります。
そのにこやかな表情を探して、境内を散策してください。
羅漢とは尊敬を受ける聖者のこと 「羅漢」は、くわしくは阿羅漢といいます。もとは「アルハト」または「アルハン」といい、「尊敬を
受けるに値する聖者」という意味の尊称です。
古代インドの「アルハト」たちは、世俗の欲望を捨てて修行し、神々の世界に近づいた者でした。そ
して、人々の供物を受けて神々の恵みをもたらす者とされ、漢訳では「応供(供養を受ける者)」ともい
います。
じつは、お釈迦さまも「アルハト」と尊称されました。しかし、お釈迦さまの場合は「応供」と訳されるのに対し、「阿羅漢」と表す場合は、お釈迦さまの弟子のうち、高い悟りの境地に達したとされる出家修行者をさします。なかでも代表的な16人をまとめたのが十六羅漢です。
ところが、世俗の喜怒哀楽を捨てたはずの阿羅漢たちなのに、その表情は笑ったり怒ったり、じつに人間的です。成願寺の羅漢さんたちは特ににこやかで、親しみ深い表情をしています。これは、仏教の長い歴史のなかで、阿羅漢の意味が深められた結果です。
菩薩と阿羅漢
お釈迦さまの滅後数百年がたったころ、仏教は上座部(長老部)と大乗仏教に大きく分かれました。上座部の「上座」は上座にすわる者、すなわち出家の長老たちの聖性を第一に重んじる仏教で、今でもスリランカやタイでは出家者に供物をささげて幸せを祈る仏教がさかんです。
しかし上座部では、悟りに達せられるのは男の出家者だけだという限定がありました。それに対し、悟 りの門は誰にでも開かれていると主張して大乗仏教が誕生し、上座部を「小乗(少数の者しか救えない乗り物)」と批判しました。そして阿羅漢は小乗仏教の目標にすぎないとされ、大乗仏教の修行者は「菩薩」と呼んで区別されました。
ところが、もともとは単に修行者を意味した「菩薩」は、やがて観音菩薩や文殊菩薩など、通常の人間を超えた力をもつ救済者として信仰されます。そこに阿羅漢たちが、普通の人に近い聖者という新たな意味をもって再登場してきたのでした。その姿はすべて僧形(出家者の姿)ですが、多くの羅漢像を集めた五百羅漢のなかには、自分の肉親と同じようなお顔の羅漢さんが必ずいるといわれます。つまり羅漢さんはごく身近な人の姿をとっているわけです。
尊者たる羅漢
特に禅宗では、悟りは遠くにあるのではなく、今の自分の内にあると説かれています。笑ったり怒ったりしている阿羅漢たちが、そのまま悟りの姿なのですから、「羅漢さん」と親しく呼ばれるとともに、
正式には皆「尊者」とつけます。
尊者の原語「アーユシュマト」は「具寿(幸福を具えた者)」とも訳されています。成願寺の境内を歩きながら、16人の羅漢さんを探してみてください。そのにこやかな表情が、心をなごませてくれるでしょう。
ちなみに、十六羅漢の名は、賓頭盧尊者、迦諾迦伐蹉尊者、阿氏多尊者、注荼半託迦尊者などですが、
持ち物などは、かならずしも決まっていません。自由で楽しげなところが、当山の羅漢さんの特色です。 |