歴史

 
 およそ600年のむかし、今の成願寺のあるところには、鈴木九郎という馬売りが住んでいました。

 そのころ、この成願寺のあたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地を少しずつきりひらきながら、馬を育てていたのです。
食べもののない日が何日も続くような、たいへんまずしい暮らしでした。九郎の馬もやせていて、あまり高くは売れません。

 ある日九郎はやせた馬を一頭つれて、千葉のほうの馬市に売りに行きました。その途中、浅草の観音さまにお詣りして、こんなお願いをしました。
「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまざっていましたら、それはぜんぶ、観音さまにさしあげます」

 大観通宝というのは中国のお金です。そのころは日本でも、中国のお金が使われていたのです。
 さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったより、ずいぶん高く売れました。
  (これは観音さまのおかげじゃ)
 九郎は大喜び。ところが受け取ったお金をよく見てみると、みんな大観通宝だったのです。

 (これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・)
 九郎は迷いました。約束どおり、観音さまにお金をあげてしまうと一銭も残りません。せっかく千葉まで馬を売りにきたのに、それではあんまりです。
 でも九郎はこう思いました。
(やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れるようになどと願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと、観音さまが教えてくださったのだろう)
 こうして九郎は、それまで以上に働いて、とうとう中野長者といわれるほどのお金持ちになりました。
 
 しかし、思わぬ不幸がやってきました。大事に育てていた小笹という一人娘が、病気で亡くなってしまったのです。
九郎の悲しみは、たいへん深いものでした。それで九郎はお坊さんになって名前を「正蓮」とかえ、家もお寺につくりかえて、立派な三重の塔も建てました。それが成願寺のはじまりです。

 それから600年ものあいだ、成願寺は仏さまをしたう人々の心とともに生きてきました。中野や新宿の方はもちろん、古くから奥多摩や山梨方面への道筋にあたっていましたので、たくさんの旅人が成願寺にお詣りしたといいます。幕末に活躍した新撰組の近藤勇も、家族を成願寺にあずけていたという記録があります。

 数年前修復が施された成願寺のご開山さまのお像のなかから、古い小さな骨片がたくさん出てきました。これを東京大学名誉教授鈴木尚先生に鑑定していただいたところ、中年の男性とからだの弱い娘の骨ということがわかりました。鈴木九郎と夭折した小笹の遺骨にまちがいないでしょう。
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